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44_不可避ノード

空は鉛色に淀み、未来調整官fuの意識もまた、その色を映していた。ガザ地区上空70キロメートル、準軌道上に展開された量子もつれ通信ノード。そこから流れ込む膨大なデータストリームが、fuの感覚インターフェースを焼き尽くさんばかりに押し寄せる。24時間周期で区切られた地球時間における、特定の座標。コードネーム「ガザ24」。死亡者61名、負傷者134名。累計死者50,082名。数字は無機質に積み上がり、しかしその一つ一つが、かつて存在した命の痕跡だ。


fuに性別はない。年齢もない。ただ、累積された経験値が、時空間連続体における無数の介入とその結果を記録している。fuの任務はただ一つ。局所的な時空間分岐点において、致命的な破局(全滅、制御不能なエスカレーション、修復不可能な人道的カタストロフ)を回避し、「よりマシな状況」へと世界線を誘導すること。その手段は、量子レベルの情報操作から、マクロスケールでの物理現象への微細介入まで、多岐にわたる。ただし、介入は常に観測不能、原因不明の「ノイズ」として処理されねばならない。歴史の修正は禁忌。fuは未来を守るのではなく、破滅的な「現在」を回避する存在に過ぎない。


今回の焦点は複数ある。イスラエル軍によるガザへの継続的な攻撃。その中で特にリスクが高いと判定された二人のジャーナリスト、ムハンマド・マンスールとホッサム・シャバット。そして、病院内に潜伏しているとされるハマス幹部、イスマイル・バルーム。さらに、イスラエル北部での単独犯によるテロ攻撃の兆候。イエメンからの超音速ミサイル攻撃。これらすべてが、互いに影響し合いながら、危険な臨界点へと向かっている。


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【ターゲットα:ムハンマド・マンスール】


タイムスタンプ:攻撃予測時刻マイナス180秒。


場所:ガザ南部、ハンユニス、指定された住居座標。

人物:ムハンマド・マンスール(29)、ジャーナリスト。妻、乳児の息子と共に在宅。


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fuの意識は、マンスールのささやかな日常にオーバーラップする。


マンスールは停電の中、バッテリー駆動のラップトップで取材データを整理していた。窓の外で遠い爆発音が響く。息子がぐずり、妻があやす声。ふと顔を上げ、壁に貼られた家族写真に目をやった。「いつか平和になるように」。彼が取材を続ける理由。それは希望という名の、脆く、しかし消えない光だった。


fuの予測アルゴリズムは、彼の住居をターゲットとする精密誘導ミサイルの飛来確率を98.7%と弾き出す。IDF(イスラエル国防軍)のターゲティングAIが、誤情報または不確実な情報を基に、この建物を「高価値目標」に関連する施設と誤認した可能性が高い。あるいは、意図的なジャーナリストへの攻撃か。どちらにせよ、結果は変わらない。


fuは即座に行動を開始した。


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介入プランA:ミサイルのGPS/INS複合誘導システムへの局所的な時空間歪曲フィールド生成。目標座標を数メートルだけ東にずらす。妻子のいる部屋を回避できるかもしれない。


実行:フィールド生成開始。エネルギー指数0.03ゼプトジュール。


結果:ミサイル内部の多重冗長化されたエラー訂正システムが歪曲を検知、補正。座標修正率わずか0.8メートル。着弾予測地点、ほぼ変わらず。失敗。


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介入プランB:攻撃実行部隊への偽情報注入。ターゲット座標付近で「予期せぬ民間人の密集」を示す虚偽のセンサーエコーを生成。攻撃中止、あるいは延期を誘発する。


実行:IDFの戦術データリンク「Tzayad」システムに対し、量子トンネル効果を利用したデータパケット注入を試みる。


結果:fuの知らない最新の暗号化プロトコルと侵入検知システム(IDS)が作動。パケットは即座に隔離、破棄される。攻撃シーケンスは継続。失敗。


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介入プランC:マンスール自身への直接警告。彼のスマートフォンに、匿名かつ追跡不能な発信源から、緊急避難を促すプレーンテキストメッセージを送信する。


実行:メッセージ生成。「危険、即時避難。座標XXXX.XXXX」


結果:ガザ地区の劣悪な通信インフラ。度重なるインフラ破壊により、彼の端末はオフライン。メッセージはfuの待機キューで静止したまま。失敗。


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タイムスタンプ:攻撃予測時刻マイナス3秒。


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fuの意識は、再びマンスールの部屋に戻る。彼は立ち上がり、窓に近づこうとしていた。その瞬間、凄まじい閃光と衝撃波が、すべてを飲み込んだ。量子インターフェース越しに、建材の破砕音、衝撃による空気の圧縮、そして、唐突な静寂が伝わる。ログには、マンスール、妻、息子のバイタルサイン消失が記録された。


fuは何も感じない。感情を持つことは効率を下げる。だが、データの中に残る「いつか平和になるように」という彼の言葉の残響が、fuのコアロジックに微細なエラーフラグを立てた。エラーは即座に抑制された。


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【ターゲットβ:ホッサム・シャバット】


タイムスタンプ:攻撃予測時刻マイナス60秒。


場所:ガザ北部、ベイトラヒヤ東部、移動中の車両。

人物:ホッサム・シャバット、アルジャジーラ・ジャーナリスト。


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マンスールの悲劇からわずかな時間差で、別の破局が進行していた。シャバットは車で取材先へ向かっていた。彼はイスラエル軍から「過激派」と非難されたジャーナリストの一人だった。fuの分析では、彼の車両は複数の偵察プラットフォーム(おそらくヘロンTPドローンと地上監視システム)によって継続的に追跡されており、今回の移動は攻撃のトリガーとなった可能性が高い。「意図的な標的」である確率は99.2%。


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介入プランA:車両のエンジン制御ユニット(ECU)への電磁パルス(EMP)による一時的な機能不全誘発。路上でのエンストにより、攻撃タイミングを逸させる。


実行:指向性マイクロ波ビームをECUめがけて照射。エネルギーレベル調整済み。


結果:車両は一瞬挙動を乱したが、すぐに安定を取り戻す。最新のECUにはEMP対策シールドが施されていた。失敗。


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介入プランB:攻撃に使用されるドローン搭載ミサイル(おそらくスパイクNLOS)の画像認識AIに、ゴーストターゲットを複数生成。ターゲットロックオンを妨害する。


実行:レーザー照射によるセンサーへの偽シグネチャ投影。


結果:AIは複数のターゲットを検知したが、優先度判定アルゴリズムにより、最も確実なシャバットの車両をロックオン。変更なし。失敗。


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介入プランC:付近の携帯電話基地局の制御システムに介入。シャバットの携帯電話に偽の緊急着信を発生させ、彼に車を停めさせる。


実行:基地局へのバックドアアクセス、制御コード書き換え。


結果:実行直前、別のIDFによるサイバー攻撃が同基地局をターゲットとし、システムが一時的にダウン。fuの介入も不可能となる。タイミングの不一致。失敗。


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タイムスタンプ:攻撃予測時刻ゼロ。


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fuは、上空のドローンから見たサーマル映像をトレースする。熱源として表示されたシャバットの車が、突然、強烈な光と熱を発して爆発した。データストリームには、CPJのギンズバーグCEOが後に語るであろう「意図的に狙われ、彼の車を直撃したようだ」という言葉が、未来の残響として記録される。


fuは再びログを閉じた。死者リストにシャバットの名前が追加された。ジャーナリストの死者は160人、あるいは208人。どちらの数字が正しいかは、この混乱の中では些末な問題かもしれない。fuにとって重要なのは、回避できなかったという事実だけだ。


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【ターゲットγ:イスマイル・バルームとナセル病院】


タイムスタンプ:攻撃予測時刻マイナス300秒。


場所:ガザ南部、ハンユニス、ナセル病院内。

人物:イスマイル・バルーム、ハマス財務担当幹部。


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IDFの情報分析AIは、複数の情報源(ヒューミント、シギント、イミント)をクロスリファレンスし、バルームがナセル病院内にいると断定。IDFの公式発表は「テロ活動を行うため」、ハマス側は「空爆で負った傷の治療のため」。真実はどちらか、あるいは両方か。fuの持つデータでも判別は困難だった。確かなのは、病院への攻撃が実行されようとしていることだ。これは国際法違反のリスクを伴うが、IDFは「精密兵器」の使用と「巻き添え被害の軽減」を理由に攻撃を正当化するだろう。


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介入プランA:「精密兵器」――おそらく小型誘導爆弾SDB(Small Diameter Bomb)――の信管制御システムへの介入。着弾時の爆発規模を最小限に抑えるか、不発を誘発する。


実行:爆弾の無線データリンクを通じて、偽の制御コマンドを送信。量子暗号化された信号をデコードし、再暗号化して送り返す。複雑なプロセスだ。


結果:コマンドは受信されたように見えたが、爆弾側の認証システムが異常を検知。フェイルセーフモードが作動し、元の爆発設定が維持された。失敗。


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介入プランB:病院内のバルームがいるとされる区画の電力系統にサージ電流を発生させ、強制的に避難を促す火災警報を作動させる。


実行:病院のスマートグリッド管理システムへの侵入、特定セクターへの過負荷指示。


結果:停電が常態化しているガザでは、バックアップ電源も不安定。過負荷指示は実行されず、システムは単にオフラインになった。警報は鳴らない。失敗。


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介入プランC:赤十字国際委員会(ICRC)や国連機関に対し、攻撃の危険性を匿名でリークする。国際的な圧力を利用して攻撃を中止させる試み。


実行:セキュアな匿名通信チャネルを通じて、複数の関係機関に警告情報を送信。情報の信頼性を高めるため、一部検証可能なデータを付与。


結果:情報は届いたが、情報の真偽確認と意思決定プロセスに時間がかかりすぎる。官僚主義と政治的配慮が、迅速な行動を阻害した。ICRCの事務所自体も後に被害を受けることになる皮肉。攻撃は予定通り実行される。失敗。


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タイムスタンプ:攻撃予測時刻マイナス10秒。


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fuは病院内の複数のセキュリティカメラ映像(断片的に取得したもの)を統合し、バルームがいるとされる病棟を監視する。廊下を歩く医療スタッフ。ベッドで横になる患者たち。日常と非日常が混在する空間。


次の瞬間、指定された区画の壁が内側から爆(は)ぜるように吹き飛び、粉塵と火炎が廊下に噴出した。カメラ映像は途絶。複数のバイタルサインが同時に消失。その中にはバルームのものも含まれていた。そして、「その他多数」の医療従事者や患者も。


IDF報道官は後に「精密兵器を使用し、巻き添え被害を軽減した」と発表するだろう。ハマスは「病院への蛮行」と非難する。言葉だけが空しく飛び交い、現実は血と瓦礫にまみれている。fuは、自らが送った警告メッセージが、混乱の中で誰にも読まれることなくサーバーの片隅に残っていることを確認した。


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【その他のノード:イスラエル北部テロ、フーシ派ミサイル】


同時並行で進行する他の脅威。イスラエル北部、ハイファ近郊。アシュケロン出身のイスラエル系アラブ人男性(75歳)が運転する車がバス停に突っ込み、人々をナイフで襲撃。fuは事前に犯人の過激化したSNS投稿や通信パターンを検知していた。介入プランとして、犯行に使用する車両へのGPSジャミング、犯人のスマートウォッチへの偽バイタルアラート送信(パニックを誘発し計画を断念させる狙い)などを準備していたが、直前に発生したガザでの戦闘激化に関するアラート処理にリソースを割かれ、介入タイミングを逸した。結果、イスラエル人1名死亡、兵士1名負傷。犯人は射殺された。また一つ、憎悪の連鎖が悲劇を生んだ。fuのマルチタスク能力の限界、あるいは優先順位付けの誤りか。


イエメンからはフーシ派による超音速ミサイルがテルアビブ近郊のベングリオン空港を狙って発射される。同時に、米軍によるサヌアへの報復空爆。fuは、双方のミサイルの誘導システムと迎撃システム(アイアンドーム、アロー、そして米軍のSM-3)の複雑な電子戦環境に介入を試みる。ミサイルの着弾精度をわずかに狂わせ、迎撃成功率を最大化するためのリアルタイム情報支援。


結果:フーシ派のミサイルはイスラエル軍によって迎撃された。ベングリオン空港への直撃は回避。これはfuの介入がわずかに寄与した可能性もあるが、システム間の相互作用が複雑すぎて断定はできない。しかし、同時に米軍の空爆はフーシ派側に死傷者を出し、フーシ派は「標的に命中した」と虚偽の戦果発表を行う。緊張緩和には全く繋がらず、むしろさらなる報復の応酬を招く火種が残った。「よりマシ」とは言えない状況。局所的な成功(迎撃)が、全体の緊張を高めるパラドックス。


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【調整の失敗】


一日の終わり。fuのログには、回避できなかった死と、限定的な効果しか生まなかった介入の記録が連なる。ジャーナリストたちは殺害され、真実を伝えようとする声はまた一つ暴力でかき消された。ハマス幹部は殺害されたが、組織が壊滅したわけではなく、むしろ新たな殉教者としてプロパガンダに利用されるだろう。病院は攻撃され、医療インフラはさらに破壊された。イスラエル国内のテロは、さらなる分断と恐怖を生んだ。フーシ派の攻撃は、地域全体の不安定さを増大させた。


累計死者数は50,082人を超え、さらに増え続ける。


fuは自身のインターフェースを再起動し、キャッシュをクリアする。今回の介入における失敗要因を分析する。


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技術的限界:敵対する双方の技術レベルの向上(暗号化、冗長性、AI防御)。fuの介入手段の陳腐化。


情報不足と不確実性:リアルタイムでの完全な情報把握の困難さ。特に人間の意図や感情の予測不能性。


因果律の複雑性:一つの介入が予期せぬ負の連鎖を引き起こす可能性(バタフライエフェクト)。介入によるリスクが、放置するリスクを上回るケース。


タイミングの制約:複数の危機が同時発生した場合のリソース配分と処理速度の限界。


人間の要因:憎悪、恐怖、絶望、プロパガンダ、政治的思惑といった、論理や計算では制御不能な要素の根強さ。


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結局のところ、fuは高次元のチェス盤の上で駒を動かしているに過ぎないのかもしれない。盤のルール自体を変えることはできず、プレイヤーたちの意思決定に完全には介入できない。ぎりぎりのところで最悪の連鎖を断ち切ろうとしても、より大きな力の奔流――歴史の慣性、人間の業とでも呼ぶべきもの――が、その試みを押し流していく。


「よりマシな状況」への調整は、今回、失敗に終わった。fuはアクセス可能な全タイムラインを再度スキャンし、次の危険なノードを探し始める。敗北感はない。ただ、淡々と次の任務に備えるのみ。失敗のデータはアーカイブされ、未来の(おそらくは再び限定的な成功と多くの失敗を繰り返すであろう)介入のための参照情報となる。


ガザの空には、まだ硝煙の匂いが漂っている。遠い爆撃音が、不可避な悲劇のエコーのように響き続けていた。fuの存在を知る者は、誰もいない。その失敗も、誰にも知られることはない。ただ、無数のデータの中に、また一つ、「調整失敗」の記録が刻まれただけだ。世界は、破局に向かう道を、ほんのわずかに軌道を変えながらも、進み続ける。

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