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第16話_螺子の境界線

プロローグ



「パレスチナ保健省が2023年10月7日以降のイスラエル軍の攻撃によるガザ地区の民間人の死者は4,651人、負傷者は14,245人と発表……」


乾いたアナウンスが、未来調整官fuの耳に突き刺さる。彼はモニターに映し出される惨状から目を背けた。崩れ落ちた建物、瓦礫の中に埋もれた子供の人形、泣き叫ぶ女性。数字で表現される被害の大きさが、現実の重みをもって胸に迫ってくる。


「おい、fu。何をもたもたしてる? そろそろ時間がないぞ」


背後から、不機嫌そうな女性の声が投げかけられた。過去補填官paだ。彼女はいつも苛立っている。世界の過去を修復する役割を担う彼女にとって、未来を微調整するfuの仕事は、不確実で、見ていて危なっかしいものに映るのだろう。


「分かってる。だが、これは……」fuは言葉を濁した。彼が目にしているのは、これから起こるかもしれない未来の断片だ。このままでは、悲劇が現実となってしまう。彼は、その未来を回避するために存在しているのだ。



悲劇への螺旋



2023年10月22日。パレスチナ自治区ガザ地区では、イスラエル軍の攻撃が激化していた。連日報道される空爆の映像は、世界中に衝撃を与え、各地で抗議デモが巻き起こる。その中でも、特に注目を集めていたのは、ガザ地区北部ジャバリアのパレスチナ難民キャンプへの空爆だった。多くの犠牲者が出たこの空爆は、パレスチナ人の怒りに火をつけ、さらなる報復攻撃を呼び起こす危険性を孕んでいた。


一方、イスラエル側も緊張を強いられていた。ハマスによる攻撃でイスラエル兵に死傷者が出たという発表は、国民の間に不安と怒りを広げる。ガザ地区東方ベールシェバへのロケット弾攻撃は、その感情をさらに煽った。イスラエル軍は報復としてレバノン南部のヒズボラ施設を空爆。事態は、更なるエスカレーションへと向かっていた。


ヨルダン川西岸地区でも、暴力の連鎖が広がっていた。イスラエル軍によるモスク空爆は、パレスチナ人の間に激しい反発を招く。イスラエル軍はハマスとイスラム聖戦がテロ攻撃を準備していたと説明したが、その言葉を信じる者は少なかった。パレスチナ自治政府が発表したヨルダン川西岸地区での死者数89人は、この地域の緊張が臨界点に達していることを示していた。



希望への反転



「まったく、この状況でどうしろと言うんだ。何もかもがギリギリじゃないか」


fuは頭を抱えた。彼は、未来の予測システムを使って、事態の収拾を図ろうとしていた。しかし、システムが示すのは、更なる悪化の一途を辿る未来ばかりだった。時間がない。このままでは、すべてが手遅れになってしまう。


その時、彼の目に一つの情報が飛び込んできた。ガザ地区南部ハンユニス東部地域で、イスラエル兵を攻撃したハマスの部隊が、リーダーの判断ミスによって孤立しているというのだ。これは、突破口になるかもしれない。


「これだ!」


fuはすぐに行動を開始した。彼は、イスラエル軍の情報ネットワークに侵入し、偽の情報を流した。ハマスの部隊が強力な武器を保有しており、反撃の準備を進めているという偽情報だ。イスラエル軍は、その情報に騙され、攻撃を躊躇するだろう。その間に、ハマスの孤立した部隊を撤退させるのだ。


しかし、事はfuの思惑通りには進まなかった。


「何をやってるの? そんな安易な情報操作で事態が好転するとでも?」


背後から、冷ややかなpaの声が聞こえた。彼女は、fuの工作をすべて見抜いていたのだ。


「今は他に方法がないんだ!」fuは苛立ちを隠せない。


「だからと言って、ずさんな計画で更に事態を悪化させるつもり? 私が修正してあげる。もっと自然な流れに」


paはそう言うと、独自の修正プログラムを起動させた。彼女の得意とする過去の記録の微調整だ。イスラエル軍の情報システムにアクセスし、ハマス部隊が孤立に至った原因を、リーダーの判断ミスではなく、通信機器の故障に書き換えた。さらに、その故障をイスラエル軍のサイバー攻撃によるものと示唆する情報を付加した。これにより、イスラエル軍は攻撃をためらうだけでなく、国際社会からの非難を恐れて自重するだろう。


結果は、paの予測通りとなった。イスラエル軍は攻撃を見合わせ、ハマスの部隊は無事に撤退。最悪の事態は回避された。



未来の分水嶺



「これで、とりあえずは一息つけるな」


安堵の息をつくfuに、paは冷ややかな視線を向けた。


「今回のことは、あなたの甘さを露呈しただけよ。もっと緻密に、計算高く立ち回らなければ、未来は守れない」


「分かってる。だが、俺は……」fuは言葉に詰まった。彼は、ただ数字を操作しているのではない。人々の感情や歴史の流れを、繊細に扱わなければならないのだ。それが、彼のやり方だった。


paのやり方は、確かに効果的だ。しかし、それは、歴史の改竄に近い。過去を都合よく書き換えることで、未来の危機を回避する。だが、それは果たして正しいことなのだろうか。fuには、疑問が残った。


「考えても無駄よ。私達にできることは、最悪の結果を回避することだけ。その過程でどんな方法を取ろうと、結果がすべて」


paは、淡々と告げた。


しかし、fuは納得できなかった。彼の仕事は、ただ未来を修正するだけではない。人々がより良い未来を築くための、きっかけを作ることも重要なのだ。彼は、今回の一件を教訓として、より良い方法を探し続けることを心に誓った。


一方、パレスチナ側では、ハマスの攻撃が失敗したことで、内部での意見の対立が表面化していた。強硬派は、更なる攻撃を主張し、穏健派は対話による解決を模索し始める。イスラエル側でも、軍事行動に対する批判が高まり、世論は和平へと傾き始めていた。


僅かな情報操作が、人々の心に小さな波紋を広げ、事態を大きく変える。それは、未来の調整官であるfuの仕事の醍醐味であり、同時に恐ろしさでもあった。



喜怒哀楽の交錯



fuの介入によって、直接的な衝突は回避された。しかし、それはあくまで一時的なものに過ぎない。人々の心に残る恐怖や怒りは、いつ再び爆発するかもしれない。パレスチナ人の家族を失った悲しみ、イスラエル人の生活を脅かされる恐怖、双方の憎しみと絶望。それらは、消えることなく、水面下で渦巻いている。


ガザ地区の少年は、空爆で家を失った。瓦礫の中で見つけた、妹の人形を抱きしめながら、彼はただ茫然と立ち尽くす。彼の瞳には、怒りよりも深い悲しみが宿っていた。


ベールシェバに住む老夫婦は、ロケット弾のサイレンが鳴るたびに、恐怖に震える。かつて経験した戦争の記憶が、彼らの心を苛む。それでも彼らは、この土地を離れることはできない。ここが、彼らの故郷だからだ。


ヨルダン川西岸地区の活動家は、イスラエル軍の暴力に抗議するデモに参加する。仲間の逮捕や負傷を目の当たりにしながら、彼は非暴力の抵抗を続けることを決意する。いつか、この土地に平和が訪れることを信じて。



螺子ネジの行方



fuは、人々の喜怒哀楽をモニター越しに眺めながら、自らの役割について考え続けていた。彼は、神ではない。未来を完全にコントロールすることはできない。しかし、小さなきっかけを作り、事態の悪化を防ぐことはできる。


その時、再びpaが現れた。


「また、感傷に浸っているの? あなたの仕事は、そんなことじゃないでしょう?」


「俺は……俺のやっていることは、正しいのか?」fuはpaに問いかけた。


「正しいも間違いもない。ただ、やるべきことをやるだけ。私たちは、この世界の歯車が狂わないように、ネジを締め続ける存在。それ以上でも、それ以下でもない」


「ネジ……か。」fuは呟いた。彼は、自分が小さなネジを回しているように感じた。そのネジの締め方次第で、世界の未来は大きく変わる。重圧と責任が、彼の肩にのしかかる。


「私にも、迷いがないわけではない。けれど、立ち止まることは許されない」


「立ち止まることは許されない……か」fuは繰り返した。その言葉は、自分自身にも言い聞かせているようだった。


「私たちは、未来の守護者。どんな困難があろうとも、使命を果たす義務がある」


paの言葉は、冷たく響くが、どこか温かみも感じられた。彼女もまた、苦悩と葛藤を抱えながら、自分の役割を全うしようとしているのだろう。


「分かっている。俺は、俺にできることを続けるしかない」


fuは、迷いを振り払うように強く頷いた。



揺らぎ続ける境界線



fuとpaの介入によって、事態は一時的に沈静化した。しかし、根本的な問題は解決されていない。パレスチナとイスラエルの対立は、歴史的にも複雑な問題を孕んでおり、一朝一夕で解決できるものではない。


民間人の死傷者は増え続け、双方の憎しみは深まっていく。一時の小康状態は、やがて訪れるであろう嵐の前の静けさに過ぎないのかもしれない。


それでも、fuは希望を捨てていない。人々が対話を重ね、互いを理解しようと努力すれば、必ず平和への道は開けると信じている。彼は、そのための小さなきっかけを作り続けるだろう。それは、歴史の大きな流れを変えることはできないかもしれない。しかし、一人でも多くの人々が、未来に希望を持つことができるように。


paは、fuの考えを理解しつつも、現実的な視点を忘れてはいない。彼女は、過去のデータから未来の可能性を予測し、最悪の事態を回避するための策を練り続ける。感情に流されず、常に冷静な判断を下すことが、彼女の信じる正義だ。


未来と過去、理想と現実。相反する二つの視点が交錯する中で、fuとpaは世界の歯車を回し続ける。彼らの小さな介入が、未来にどのような影響を与えるのか、誰にも分からない。しかし、彼らはそれぞれの信念に従って、自らの役割を全うしようとしている。


未来調整官fuの指先が、再びキーボードの上を滑る。新たな情報が、彼の目に飛び込んでくる。それは、再び緊張が高まりつつある地域の情報だった。fuは、深呼吸をして、集中力を高めた。彼の仕事は、まだ終わっていない。


「今度は、どんなネジを回せばいい?」


fuの呟きは、誰に聞かせるものでもなく、ただ静かに虚空に消えていった。だが、その言葉には、未来への揺るぎない決意が込められていた。パレスチナとイスラエル、その境界線上で繰り広げられるドラマは、まだまだ続く。未来と過去、二人の調整官の苦闘も、終わりはない。彼らは、いつ終わるとも知れない長い旅路を、ただひたすらに歩き続けるのだ。世界のネジを締めながら。未来の分岐点を見つめながら。


「で、結果はどうだった? fu」


paが冷めたコーヒーを片手に、執務室に現れた。彼女の瞳は、事の顛末を見透かすように鋭い。


「とりあえずは、最悪の事態は回避できた。報告書にはそうまとめておいた」


fuは疲れた声で答えた。モニターには、何事もなかったかのように平穏を取り戻したパレスチナとイスラエルの日常が映し出されている。だが、それは表面的なものに過ぎないことを、fuは知っている。


「あくまでも、“とりあえず”ね。根本的な解決には程遠い。」paは皮肉っぽく言った。


「分かっている。だが、時間を稼ぐことはできた。その間に何か変わるかもしれない。」fuは微かな希望を託す。


「希望的観測ね。あなたはいつもそう。人間の善意に期待しすぎる。」paは呆れたように肩をすくめた。


「それでも、信じるしかないんだ。人間の可能性を。」fuはモニターに映る子供たちの笑顔を見つめながら言った。


「感傷に浸るのは勝手だけど、次に同じような失敗をしたら、私があなたを修正することになるかもしれないわ。」paは冷たく言い放った。


「分かってる」


fuはそれ以上反論しなかった。彼は知っている。paの言う「修正」の意味を。未来調整官としての自分を、存在ごと消し去ることを意味するのだ。


「それじゃ、私は過去の修復に戻るわ。今度はあなたの尻拭いをせずに済むように祈ってるわ。」paは踵を返して部屋を出て行こうとした。


その時、fuが思い出したように言った。「ところで、pa。君が情報操作に使ったサイバー攻撃の痕跡…あれは意図的に残したのか?」


paは立ち止まったが、振り返りはしなかった。「さあ、どうだったかしら。」


「もしそうだとしたら、何故だ?」fuはpaの真意を知りたかった。


「想像に任せるわ。」paはそれだけ言うと、部屋から出て行った。


一人残されたfuは、モニターに映る風景をぼんやりと眺め続けた。paの言葉が、彼の心に波紋を広げる。サイバー攻撃の痕跡を残した意味。それは、単なるミスなのか、それとも何か意図があるのか。


ふと、彼は一つの可能性に思い至った。もしかしたら、paは自分と同じように、この膠着状態に疑問を感じているのかもしれない。そして、彼女なりの方法で、変化を促そうとしているのではないか。


確証はない。だが、fuは、その可能性に一縷の望みを託した。未来と過去。二人の調整官の間で、新たなせめぎ合いが始まろうとしていた。

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