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第3話_カルメル山の静寂

「こちらfu。状況認識コード《イカロスの墜落》、現実化率78.9%。覆滅シナリオ発動まで残り72時間」


西暦2023年10月9日、東地中海の夕暮れ。次元の狭間に浮かぶ調整室で、私は眼前のモニターに映し出される未来予測図に息を呑んだ。燃え盛るガザ、廃墟と化したベイルート、そしてエルサレム旧市街に翻る漆黒の旗。中東全域を巻き込む大戦争の絵図が、刻一刻と鮮明さを増していく。


事の発端は、パレスチナの武装組織ハマスによるイスラエル奇襲攻撃だった。パレスチナ保健省の発表によれば、イスラエル軍の反撃により、ガザ地区では子供140人、女性105人を含む560人の民間人が死亡、負傷者は2900人に達していた。怒りと悲しみに震えるガザの民衆。イスラエルは30万人の予備役を招集し、徹底的な報復攻撃を宣言。レバノン南部では、イスラエル軍とシーア派組織ヒズボラとの衝突が勃発し、緊張は一気に高まっていた。


米英独仏伊の5カ国首脳は、イスラエルへの全面的な支持を表明する共同声明を発表。国際社会はイスラエル支持派とパレスチナ擁護派に二分され、泥沼化の様相を呈していた。国連のグテーレス事務総長は、イスラエルによるガザ地区の完全封鎖を強く非難し、人道支援の必要性を訴えるも、事態収拾の糸口は見えない。


モニターの現実化率は、私の調整活動にも関わらず、容赦なく上昇を続ける。このままでは、72時間後に人類史上最悪のカタストロフが現実化する。まさに《イカロスの墜落》、太陽に近づきすぎた人類が、その傲慢さゆえに破滅する未来だ。


私は深く息を吸い込み、思考を加速させた。未来調整官fu、それが私の存在意義。未来予測アルゴリズムによって導き出された破滅的な未来を、わずかな可能性に賭けて回避する。今回の任務成功確率は、3.1%。絶望的な数字だが、私は決して諦めない。


事態打開の鍵は、二人の人物。イスラエル国防軍情報部8200部隊所属の女性分析官ダリア・コーエンと、ガザ地区のジャーナリスト、カリム・アル・マスリ。二人は敵対する立場にありながら、共に真実を追求し、和平の可能性を模索していた。彼らの行動を後押しし、憎悪の連鎖を断ち切らなければならない。


ダリアは、イスラエル軍によるガザ攻撃のデータ解析中に、ある違和感を覚えていた。攻撃目標の選定に不自然な点があり、意図的に民間人の犠牲を増やそうとしている勢力の存在を感じ取ったのだ。しかし、上層部に報告しても、強硬派に押し潰されるのは明白だった。


一方、カリムはイスラエル軍の攻撃で親友を失い、復讐心に燃えていた。彼はハマスの広報活動に加わり、イスラエルへの激しい憎悪を煽る記事を書き続けていた。しかし、心の奥底では、暴力の連鎖に疑問を感じ始めていた。


私はまず、ダリアのパソコンに侵入し、解析プログラムに微細な変更を加えた。彼女の分析結果に、イスラエル軍内部の過激派組織の関与を示す証拠が浮かび上がるように誘導したのだ。そして、彼女が偶然その証拠を目にするよう、ディスプレイの表示位置を調整した。


次に、カリムの携帯電話に偽のメッセージを送信した。送信元は、彼が信頼するパレスチナ人権団体の代表。メッセージの内容は、イスラエル国内で反戦運動を続けるユダヤ人活動家グループの存在だった。その中には、イスラエル軍の攻撃で家族を失った者もいるという。


ダリアは、入手した証拠を手に、信頼できるジャーナリストに接触した。彼女の勇気ある告発は、イスラエル国内に大きな波紋を呼ぶ。一方、カリムは、反戦活動家グループとの接触を試みた。彼らの苦悩と、真の平和を願う言葉に、カリムの心は大きく揺れ動いた。


だが、事態は容易に好転しない。イスラエル軍内部の過激派組織は、ダリアの動きを察知し、彼女の暗殺を計画。ハマス強硬派も、カリムを裏切り者と断定し、処刑リストに加えた。二人の命が、風前の灯火となった。


私は、イスラエル軍内部の過激派組織の通信網に侵入し、偽の命令を流した。標的をダリアから、彼らの隠れ家へ誘導する偽情報だ。同時に、ハマス強硬派の武器庫の位置情報を、イスラエル軍情報部に匿名でリークした。


夜明け前、イスラエル軍の特殊部隊は過激派組織の隠れ家を急襲。激しい銃撃戦の末、組織の主要メンバーは全員逮捕された。同じ頃、ハマス強硬派の武器庫はイスラエル軍の空爆を受け、壊滅。組織の力は大きく削がれた。


計画変更を余儀なくされた過激派組織とハマス強硬派は、互いに相手の裏切りを疑い、内部分裂を起こす。混乱に乗じて、ダリアはメディアを通じてイスラエル軍の攻撃目標選定の不正を公表。世界中に衝撃が走った。カリムは、イスラエル反戦活動家グループとの対話の様子をインターネットで生中継し、パレスチナ市民に平和の可能性を訴えた。


二人の行動は、世界中の人々の心を動かした。イスラエル国内では、政府の強硬路線に対する批判が高まり、大規模な反戦デモが発生。国際社会からも、イスラエルとパレスチナ双方に冷静な対応を求める声が上がり始めた。


しかし、《イカロスの墜落》の現実化率は、依然として50%を超えていた。憎悪の連鎖は根深く、少しのきっかけで再び燃え上がってしまう危険性がある。私は、最後の手段に出ることにした。


カルメル山。イスラエル北部に位置し、古くから聖なる山として崇められてきた場所。その山頂に、私は特殊な装置を設置した。これは、人々の潜在意識に働きかけ、共感と慈悲の心を呼び覚ます装置。ギリシャ神話に登場する、人々に音楽を授け、争いを鎮めたとされる女神ムーサの名を冠した「プロジェクター・ミューズ」だ。


深夜0時、私はプロジェクター・ミューズを起動した。目に見えない波動がカルメル山頂から放射され、イスラエルとパレスチナの地を覆う。波動は人々の心に深く浸透し、敵対する者同士の間に、微かな共感の光を灯していく。


翌朝、事態は急速に沈静化に向かい始めた。イスラエル政府は、ガザ地区への攻撃を一時停止し、人道支援物資の搬入を許可。ハマスも、停戦に向けての交渉に応じる姿勢を示した。国際社会は、双方の歩み寄りを歓迎し、仲介に乗り出す。


調整室のモニターに映し出された現実化率は、みるみるうちに下降していく。40%、30%、20%……そして、ついに0%になった。モニターから戦火の映像が消え、代わりに、夕日に染まるカルメル山の風景が映し出された。


「こちらfu。状況認識コード《イカロスの墜落》、回避成功。これより帰還する」


私は安堵のため息をつき、調整室の電源を落とした。窓の外には、穏やかな地中海の海が広がっている。人類は、破滅の淵から辛うじて逃れることができた。しかし、これはあくまで一時的な勝利に過ぎない。


憎悪、恐怖、無理解。人類の心に潜む闇は、いつか再び世界を破滅へと導こうとするだろう。私はその時、再びこの場所に戻ってこなければならない。


今回の調整活動で、私は一つの確信を得た。希望は、決して絶望に屈しない。どれほど状況が悪化しても、わずかでも可能性がある限り、未来を変えることができる。ダリアとカリム、そしてプロジェクター・ミューズ。彼らは、私にそのことを教えてくれた。


人類は、まだ滅びるわけにはいかない。愛と平和に満ちた未来を実現するために、私は戦い続ける。未来調整官fuとして、この宇宙に存在する限り。

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