花護男爵邸は、上を下への大騒ぎだった。
「怪盗が、お坊ちゃまを誘拐するのですってよ!」
「男衆は集まれ! みんなで邸の守りを固めるぞ!」
「そんなことより、まずはお坊ちゃまに学校から戻って頂くのが先ですよ!」
蜂の巣を突いたような騒ぎの中、任務で外国に出ている次男を除く、花護男爵家の一堂が、家へ呼び戻されることになったのだった。
渦中の
現在、大蔵省に勤務する官僚という長男、花護
海軍に所属し、現在は任務で外洋に出ている次男、花護
そして、現在学生、十八歳の高等学校生、花護
現在、長兄勝彦は、官舎住まいの為、花護邸にいる子息は、美優人一人と言うことになる。
何も告げられず『家の大事でございます』とじいやに迎えられ、高等学校から大急ぎで家にもどった美優人は、普段ならば家に寄りつかない長兄が、髪を乱したままの姿で居ることに、度肝を抜かれた。
「に、兄様っ……?」
普段、勝彦は、髪をポマードで後ろになでつけた、オールバックで、どんなに疲れた時でも髪の一筋も乱さないという、品行方正な姿が、評判の方だったからだ。
「美優人っ!!!」
美優人の姿を見るや、勝彦が駆けつけて、ぎゅっと抱きしめられる。
「に、兄様っ……痛いですっ!」
息が出来ないくらいに抱きしめられて、思わず、美優人が声を上げる。
「ああ、済まない。とにかく、良かったよ。お前が戻るまで、不安で不安で……」
ほう、と勝彦が一つ吐息した。
「私は、無事ですが……」
あたりを見回した美優人は、使用人達が、皆、安堵の表情を浮かべていることに気が付いた。
「兄様、これは一体、どういう状況なのですか?」
もしかして、と美優人は、ドキッと胸が跳ねるのを感じた。
現在、花護男爵家は、ある、『問題』を抱えている。
その問題は、家の浮沈にも関わるものであったし―――そして、美優人自身にも、無関係ではなかった。そのことに関係があるかと、思ってしまったのだった。
「……父上のところへ行こう」
兄に誘われる形で父の書斎へ行くと、父は、鎧甲冑を身に纏っていた。
先祖伝来の品で、毎日、ばあやが丹念に磨いて手入れをしている一品である。
「ち、父上……いま、戻りましたが……」
「おお、美優人かっ! よくぞ無事に戻った」
父、花護男爵が鎧甲冑のままで抱きしめてくるので、痛かったが、こちらには抗議の声を上げなかった。
「……父上、家の大事と聞きましたが……まさか、恵比寿屋さんが……」
恵比寿屋という言葉を聞いて、ピリッと緊張が走った。
「いや、あのジジイではない。……これを見るがいい」
父が差し出したのは、洋封筒であった。
封蝋が施してあって、『K』とイニシャルが押印されている。
すでに封は解かれていたので中を確認する。ほんのりと、舶来品の香水らしき、あまやかな薔薇の薫り漂う便箋が一枚。
流麗な文字で書かれていたのは、たった二行。
『帝国の星、帝都の華。
花護男爵のご令息を、今宵二時、攫いに伺います』
「当家に息子は三人。そのうち、拐かされる可能性があるのは、お前だろう、美優人」
美優人は、息を飲んだ。
確かに、成人男性であり、国家の官僚である長兄を誘拐するというのは、少々考えにくいことだ。
「けれど……これは」
「これは、予告状というものだよ」
長兄が、静かに口を開く。
「予告状……?」
「そう、あらかじめ、犯行を報せておくものだ。自意識過剰な犯人が行うらしい。
ここには、午前二時と書かれているが、それが油断させるための策ということもあるからね。だから、すぐに家に帰って貰うことにしたんだよ」
「なるほど、解りました。……それで、この犯人というのは、心当たりはあるのですか?」
兄と父は、首を横に振った。
「ただ、この者が、最近巷間を騒がす怪人か、または、それを
「怪人……」
「ああ。帝都の闇に跳梁跋扈する、怪人―――特に、この封蝋に『K』の文字が刻まれている事を鑑みれば、怪盗Kだろう。今、友人達を呼んでいるから、二人に聞けばハッキリするだろう」
「兄様の、ご友人ですか?」
そういう方を呼んだところで何か力になるのだろうかと、首を捻った美優人だったが、兄の言葉を聞いて、すぐに考えを改めることになった。
「ああ、大学の同期の友人でね、
などと兄は、笑顔で言うが。
「兄様……そのお二人って、警視総監と、天下に誇る名探偵では在りませんか……」
強力な『助っ人』と言って良いのだろうが、それにしても、強力すぎる方々だろう、と美優人は少々、頭痛がした。