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第十六話 一人で過ごす発情期は

 合宿が終わってから一ヶ月が過ぎ、ちょうど夏休みに入った七月下旬のある日。アパートで一人、僕はどうしようもないΩの自分を持て余していた。


「……はぁ」


 欲を吐き出したティッシュを丸めて、ベッドの近くに置いてあるゴミ箱に捨てる。

 ゴミ箱の中には、すでに同じ用途で使ったティッシュが大量に積み重なっていた。しかも最悪なことに、一日でティッシュ一箱以上を空けているというのに、まだまだ収まりそうにない。


「うぅぅ……」


 ベッドの上でうつぶせになり、足をばたつかせる。何回しても足りないし、身体の奥が疼いて仕方ない。辛すぎる。


 本当なら、まだ発情期の時期じゃないはずなのに。

 薬で合宿中の発情期のスキップしたから、周期が乱れたのかな。しかも、いつもよりもずっとキツい。

 話半分に聞いてたけど、医者の話はしっかり聞くべきだった。


 一人で処理しても、全然追いつきそうにない。

 波留に抱かれたとき、波留は友達のはずなのに、自分でも引くほど感じてしまった。やっぱり僕はどうしようもなくΩで、波留はαなんだと身体で分からされたような気分になった。


 この前告白を断ったばかりだ。波留には、発情期の相手をしてほしいなんてさすがに頼めない。

 誰か他のαに――いや、玲人がいい。玲人に抱かれたい。


「玲人……」


 枕元に置いてあったスマホに伸ばしかけた手を、すんでのところで引っ込める。


 なんで玲人に電話しようとしてるんだ、僕は。

 あんなやつ、顔も見たくないのに。


 一瞬だけ僕の中のΩが満足したとしても、数秒後には最悪な気分になること間違いなしだ。


 無意識に玲人を求めてしまうのも、発情期が過ぎれば、今よりも多少マシになる。

 それまでは、我慢だ。玲人には電話しない。絶対電話しない。必死に自分に言い聞かせ、枕に顔を埋める。


 この枕、玲人の匂いがかすかに残っている気がする。

 番を解除されたあと、枕もシーツも洗濯して、しっかり殺菌までしたから、あいつの匂いが残っているはずなんてないのに。


 ありもしない玲人の匂いまで感じてしまうなんて、相当重症だ。次からは、発情期をスキップする薬を飲むのはやめよう。


 そんなことを考えている間にも、また僕の右手がいつのまにかスマホに伸びていて、『本郷玲人』と画面に表示されていた。


「うわっ」


 通話ボタンをタップする直前で我に返り、スマホを放り捨てる。


 このままじゃまずい。とにかく今はスマホをどうにかしないと。

 そのうち僕の頭がおかしくなって、この指が勝手に玲人に電話をかけようとするのも時間の問題だ。


 スマホを手に持ち、ベッドからどうにか立ち上がる。

 熱っぽい身体を引きずって、洗面台の方まで歩いていく。洗面台の隣には、小さな縦型の洗濯機。


 洗濯機と壁の狭い隙間の間に手を伸ばし、電源を消したスマホをそっと落とす。


「これでよし」


 一仕事終えて、僕は汗をぬぐう。


 これで洗濯機をどかさない限りは、スマホは取れなくなった。


 あとで取り出すのが大変そうだけど、玲人に連絡してしまうよりはずっとマシだ。発情期が終わってから、スマホはゆっくり救出したらいい。


 ホッと胸を撫で下ろし、ベッドに戻ろうとしたとき。ちょうどチャイムがなった。


 こんな時に誰だよ。特に約束もしていなかったはずだし、どうせ訪問販売か新聞の勧誘だろう。相手にする元気もなかったので、無視を決め込むことにする。


 ベッドに横になったところで、またチャイムがなる。

 ……今日はやけにしつこいな。でも、二回も無視したら、さすがに諦めるだろ。そう思って、布団を頭からかぶり、目を瞑る。


 けれど、訪問者はしつこいなんてものではなく、何度も何度もチャイムをならし、しまいにはピンポンピンポンと連打してきた。


「……分かったよ。出ればいいんだろ」


 苛立ったように一人言をこぼし、ベッドから跳ね起きる。ただでさえしんどいのに、いい加減にしてほしい。


「はい」


 僕は苛立ちを隠そうともせず、インターホンの通話ボタンを押した。相手が誰かを確認もしないで。


 どうせしつこい訪問販売だろうと思い込んでいたのが良くなかった。


「亜樹〜、あけて」


 今一番聞きたくない声が聞こえてきて、インターホンの画面をバッと見る。そこには予想通り僕の元番の玲人が映っていて、能天気に手を振っていた。


「……玲人。何で……」


 玲人に連絡を取らないために、スマホを洗濯機の裏に入れておいたのに。あの苦労が全部水の泡だ。


「亜樹に会いたくなっちゃった」


 そう言った玲人は、画面越しに心底腹立たしい笑顔を浮かべた。

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