合宿三日目の夜。
昨日と同じ場所で会う約束をしていた波留はそこにはいなくて、代わりに泣きじゃくってる男子がいた。
波留は、どうしたんだろう。
「大丈夫?」
波留の行方が気にはなりつつ、さすがに放っておけなくて、泣いている彼に声をかける。
ゆっくりとあげた顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
本田くんだったかな。
挨拶ぐらいしかしたことないけど、彼も僕と同じ二年生。おとなしくて真面目な子で、いつも最前列で講義を受けている。
「何かあったの?」
「おれ、Ωなんだけど、今まで発情期が来たことがなかったんだ」
グスグス鼻をすすりながらも、本田くんは話し始めた。
僕の発情期が初めて来たのは、高校一年生の時だった。もっと早い人だと、中学生でも来てる人もいると聞く。
大学生になっても発情期が一度も来たことがないΩは聞いたことがないけど、Ω自体の数が少ないし、そういう人もいるのかも。
「そうなんだ」
少し驚きつつも、そこは本題ではない気がしたので、軽く相槌をうつだけに留めておく。
「もう一生発情期が来ないかもしれないって言われてたのに、さっき初めての発情期が来た」
「え」
「そしたら、急にαの友達に襲われて……」
……友達、か。
ただでさえ襲われるのなんてショックなのに、友達だったら余計にきついだろうな。
「それで、その、どうなったの?」
「どうにか逃げてきたけど、ただショックで、これからどうしたらいいのか分からないんだ……」
相当強いショックを受けたみたいで、本田くんは何度も首を横に振って、涙を流している。
番のいないΩは、守ってくれる人がいないし、発情期には不特定多数のαを誘惑するフェロモンを出してしまうから、ターゲットにされやすい。αだって襲いたくて襲ってるわけじゃなくて、Ωのフェロモンには抗えないんだ。
もちろん、発情期でもなんでもない時に襲ってくるヤツは、ただの犯罪者でしかない。ただ、正直、Ωの発情期だけは、……。襲いたくもないのに襲わないといけないαの方も被害者かもしれない。
だから、お互いを守るためにも、本当は、番のいないΩの発情期は家に引きこもってた方がいいんだけど。予想できないタイミングで発情期が来る場合もあるから、そう上手くはいかない。
僕も、初めて発情期が来た時は、そうだった。
本田くんみたいに激しく動揺して、もう二度と外なんか出たくないって思ったっけ。
ほとんど話したこともないのに、あの時の自分を見ているようで放っておけず、なんとかして助けてあげたくなった。
「ちょっと待ってて」
そう言い残し、いったん部屋に戻る。
リュックから錠剤を持ち出して、もう一度本田くんのところへ向かった。
「あげる」
手のひらに錠剤を五粒のせて、本田くんに差し出す。
「なに? これ」
本田くんは受け取ろうとはせず、キョトンとしている。
「発情期を抑える薬。ちゃんと病院で処方してもらった薬だよ」
「そんなのあるんだ」
「本当は発情期が来る前に飲む薬なんだけど、始まったばかりなら、もしかしたら効果があるかも」
「いいの?」
「本当は人にあげちゃダメなんだけど、非常事態だから」
法律も、警察も、Ωの発情期に限っては対応してくれない。だから、自分たちの身は、自分たちで守るしかないんだ。
「あと、首を守るようなアクセサリーとかつけた方がいいよ。無理矢理にでもαに噛まれたら、一生が台無しになるから」
一度も発情期が来たことないなら仕方ないかもしれないけど、無防備過ぎる本田くんが気になって、ついお節介を焼いてしまう。
「百瀬くんも、それでいつもチョーカーつけてるんだね」
少し泣き止んだらしい本田くんの視線が僕の首元に泊まる。家にいる時以外は、いつでも欠かさずつけているソレ。
「――うん」
チョーカーにそっと触れて、わずかに頷く。
今コレをつけている理由は、玲人の噛み跡を隠すため。
第三者の憶測でしかない噂を、確定にしないため。
本当のことも言えず、本田くんの誤解をそのままにしておく。
「話を聞いてくれてありがとう、優しいんだね」
本田くんは目元に溜まった涙を手で拭い、にっこりと笑みを浮かべた。ようやく本田くんから笑顔を見れて、ホッとする。
「大したことはしてないよ。同じΩとして、心配だったから」
「百瀬くんが、αだったらよかったのに」
ボソリとつぶやいた彼の言葉に、衝撃を受けてしまった。
これだけ嫌な思いをしても、彼はそれでもαが良いんだ。Ωというだけで対象外で、αじゃないと好きにならないと思ってる。そっか、大学二年生になって初めて発情期を迎えたΩ性の薄い彼でも、そう思うんだ。
きっと、僕も彼と同じ。
αが嫌いなのに、今もαの玲人を求めている。
僕たちは、どこまでいってもΩの血から逃れられない。
αの呪縛から逃れられない。
αだとかΩだとか、そんなの関係なく人を好きになりたいのに。
「分かる」
苦笑いを返しておいた。
◇
本田くんが部屋に戻ってからも、僕はそこで波留を待ち続けていた。だけど、三十分以上過ぎても、波留は来なかった。
スマホをタップしても、何の連絡も来ていない。
画面に表示されている時間は、21時50分。
波留は、本当にどこに行ったんだろう。
部屋で休んでるならそれでいいけど、そうじゃないのなら、心配だ。もしどこかで倒れたりしていたら……。
その可能性は低いとは思いつつ、不安が拭いきれず、電話をかけてみる。
けれど、何度かかけてみても、呼び出し音がなるだけで、波留が出る気配はない。
いよいよ本格的に心配になってきて、波留の部屋まで行ってみる。そこにいたのは波留と同室の子だけで、『フラリとどこかに行って、それから戻ってきていない』と言われた。
こんな時間に、一人で外へ?
考えすぎなのかもしれない。
ただコンビニに何かを買いに行っただけなのもしれない。
約束を忘れてしまっただけなのかもしれない。
そこまで考えて、やっぱりおかしいと思い至る。
波留が無断で約束を破るなんてありえない。
――やっぱり波留を探しに行こう。
22時過ぎ、僕は一人ホテルを抜け出した。