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第九話 合宿

 六月下旬。受講している講義の合宿があり、バスに乗って三時間ほどのホテルに泊まることになった。ちなみに波留も受けている講義だから、彼も一緒だ。


 ――合宿二日目の夜。


 民宿の階段に座り、ぐったりしている波留を見つけた。

 体調でも悪いんだろうか。心配になり、急いで波留に駆け寄る。


「波留? どうした?」


 驚かせないように、なるべく優しく声をかけた。そうしたら、波留がゆっくりと膝につけていた顔を上げる。


「肉が、食べたいです……」


 波留の口から出てきたのは、予想外の言葉だった。


「肉?」


 肉って、あの肉だよな。

 豚肉とか、牛肉とか、鶏肉とか。

 言葉の意味は理解してるのに、まさか『肉が食べたい』なんて言われるとは思わず、疑問しか浮かばない。


「昨日から、食事に肉が全く出てこないじゃないですか」

「教授のこだわりなんだよ」


 去年も同じ教授の講義を受けていたから知ってるけど、彼は生粋のヴィーガンらしい。合宿時もわざわざヴィーガン対応のホテルを手配し、しかも自分だけではなく、なぜか学生の僕たちにまでヴィーガン食を食べさせるという徹底っぷり。


「オレたちまで巻き込まないでくださいよ……」


 いつもよりもずっと弱々しい声で、波留はここにいない教授への不満を漏らす。僕は別に肉が食べれなくても平気だけど、波留は大の肉好きだからな。


「たしかにな。あと二日だから、どうにかがんばれ」


 たった二日の辛抱だと、波留を励ます。


「二日も……」


 元気を出すどころか、波留はため息をつくばかり。


「耐え切れるか自信ないです。帰ろうかな」

「そんなに?」


 冗談か何かだと思ってたけど、波留の顔は青ざめ、げっそりしていた。数日肉を食べないからって、そんなことある?


「体調悪いなら無理にとは言わないけど、途中で帰ったら、単位落とすよ」


 そんなに体調悪いなら帰った方が良いとすすめてあげたいけど、そうはできない事情があった。


「ほんとに?」

「実際に去年落とされてるヤツがここにいる」


 苦笑しつつ、僕は自分を人差し指で差す。


 去年は、発情期と合宿の時期が被って、休んでいる。

 合宿以外はちゃんと講義に出ていたし、大学側には休みを申請してたのに、落とされたんだよな。


 僕の他にも合宿を休んだ人は例外なく落とされているみたいだ。だから、たぶん合宿に行かなかったら、ほぼ確実に単位をもらえないんだと思う。


 波留だって、僕みたいに何回も同じ講義を受けたくないだろう。自由選択科目なら受けないという選択肢もあるけど、経済学部の僕たちは地域経済論が必修科目だから、この講義を諦めたら卒業できなくなる。


「帰ったんですか?」

「休んだんだ」


 発情期でとは明かさず、事実のみを伝える。

 波留は死にそうな顔で頷き、うなだれた。


「あと二日……。オレ、生きていないかもしれません」


 ここまで気落ちしてる波留、初めて見た。

 たしかに波留はいつも肉を食べてるし、肉食とか言ってたな。好きだからとかじゃなくて、必要ってこと?


 うーん……。

 なんとかして波留に肉を食べさせてあげられないかな。

 肉……。肉、か……。


「合宿終わったら、焼き肉でも行く?」

「大学の外でも会ってくれるんですか?」


 とにかく波留に元気を出してほしくて提案したことで、よく考えずに言ったことだった。けれど、パッと表情を明るくした波留を見て、ハッとする。


 大学の外では、まだ一度も波留と会ったことがない。

 あまり期待を持たせるのも良くないかと思って、誘われてもはぐらかしていた。


 でも、今さら取り消せないし、友達とごはんを食べに行くくらい普通だよな。

 それに今は、まずは波留を元気づけないと。


「焼き肉のために、残りの合宿もがんばって」

「はい! 亜樹先輩とのデートのためにがんばります!」


 多少気力が湧いたみたいで、波留はわざわざデートと言い直してきた。


 少しは持ち直してくれたかな。

 空元気じゃないといいんだけど。


「部屋に帰って、ゆっくり休みなよ」


 とにかくこんなところにいつまでもいても余計に体調が悪くなると、波留に声をかける。


「はい。先輩も」


 波留は素直に立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。


「うん。おやすみ」


 挨拶を返し、手を振る。


 心配だったから、波留が背中を向けて歩き出してからも、しばらく彼を見守っていた。後ろから見ていると、波留の足取りがおぼつかない。大丈夫かな……。


「けほっ」


 廊下の角を曲がるところまで波留を見届けてから、一つ咳をする。


 波留も心配だけど、僕も微妙に体調悪いんだよな。

 昨日から悪寒がするし、若干熱っぽい。

 おでこに手を当ててみたら、やっぱりちょっと熱かった。やっぱり熱がありそうだな。


 急いで部屋に戻ると、同室に割り当てられた同級生がちょうどシャワーを浴びていた。浴室の方から、流水の音が聞こえる。


 よし、今のうちに済ませておこう。

 リュックの内ポケットに入れて持ってきたピルケースを取り出し、カラフルな錠剤を五つ手のひらにのせる。


 見た目はあやしげだけど、ちゃんとした病院で処方してもらった薬だ。まだ認可されて間もない、相当強い薬。


 三ヶ月に一回来る発情期が地域経済論の合宿とばっちり被っていると分かり、急いで病院に駆け込んだ。


 それで、発情期を一周期分スキップ出来るという薬を処方してもらったんだ。

 夢のような薬だけにかなり強い副作用があって、次の発情期が相当キツくなるらしい。それから、薬を飲んでいる間は、人によって風邪のような症状が出たり、熱っぽくなったり。それもしんどいけど、無対策でいって、合宿中に発情するよりはずっとマシだ。


 病院の先生には『合宿を休んだら』なんて言ってたけど、そのせいで去年は単位を落としている。さすがに三回も同じ講義は受けたくないから、今年こそは何がなんでも受かりたい。


 このぐらいなら我慢できないことはないし、あと二日だ。たった二日さえ乗り切ればいい。


 手のひらにのせていた錠剤を五粒まとめて口に放り込み、ペットボトルの水で流し込む。


 どうか、何事もなく合宿が終わりますように。

 祈るような気持ちで、僕は錠剤を飲み干した。

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