他の人よりもだいぶ長めの前髪を上げると、井駒くんの印象がガラリと変わった。
広めのおでこ、大きな瞳は少しだけ垂れ気味で黒目がち。目鼻立ちは整っているけど、どちらかというとキュートな系統の顔立ちだ。
昨日までは、ただおとなしそうな子だなというイメージしかなかった。だけど、元の顔立ちは誰からも好感度が高そうな親しみやすいもので、モテそうだった。
「前髪あげた方が似合うね」
井駒くんの額に手を当てたまま、感想をそのまま伝える。
「せっかくかっこいいんだから、もっと顔がよく見える髪型にしたらいいのに」
この髪型が気に入ってるのなら、仕方ない。でも、彼の場合は前髪を短くするだけでかなり雰囲気が変わるし、もったいないなと思ってしまう。
覆い隠していた前髪がなくなり、バッチリと視線が合っている金色の瞳は大きく見開かれている。それから、彼の頬がじわじわと赤くなっていった。
染まっていく顔を見ているうちにやっと我に返って、彼の前髪から手を放す。
ほとんど話したこともない人に対して、僕は何してるんだろう。モフ耳としっぽが生えているからか、つい愛犬だったシルバみたいな感覚で接してしまった。
彼は、人間なのに。――人間、なんだよな?
「かっこいい……ですか?」
モフ耳をピクピクさせながら、彼はそう聞いてきた。
前髪を下ろしたからまた表情が分かりにくくなったけど、たぶん怒ってはいなさそうだ。
「うん。言われたことない?」
「あんまり目立たないようにしてたので」
井駒くんは言われたことがあるともないとも答えず、微妙にズレた返事をした。
井駒くんほどじゃないにしても、僕も目立つのは苦手だ。なるべく周囲に馴染んで、ひっそりと生きていきたい。
僕がそう思うようになった原因は、玲人の件や今までに絡まれたαとのアレコレに加えて、生まれつきの性格も合わさっている。
井駒くんは、どうなのかな。本当は、どういう子なんだろう。おとなしそうな子だと思っていたのに、二年生のαに歯向かうような度胸もあって、それからモフモフの大型犬か狼みたいな耳としっぽも生えてくる。色々な一面があって、どれが本当の彼なのかが分からない。
「さっきのはただの僕の感想だから、気にしないで。井駒くんが好きな髪型をするのが一番だと思うよ」
「百瀬先輩は、前髪短くしたほうが似合うと思いますか?」
「僕は短い方が良いと思う」
意見を聞かれたので、即答した。
そうしたら、井駒くんのしっぽがピンと高く上がって、一回二回三回とソレが揺れる。
「先輩がそう言ってくれるのなら、前髪切ります」
「ほとんど話したこともない僕の意見で決めても大丈夫?」
「はい! ありがとうございます」
井駒くんは今までよりも大きな声を出して、勢いよく首を縦に振った。
「何にもしてないよ」
「いえ、先輩に救われました」
「救われたのは、僕の方だから。あのさ、井駒くんは、βで合ってる?」
「え?」
「ごめんね。親しくなる前に第二性を聞くのは失礼かもしれないけど、井駒くんに勇気をもらったんだ」
実際には、さっきの金髪みたいに自分がαだとひけらかしてきたり、逆にΩだと明かして好きなαにアピールしたりする人も少なくはない。それに、大抵は誰がαだとかΩだとか、なんとなくみんな察している。
だけど、たとえ匂いや噂で相手の第二性に気がついても告げないのがマナーだ、という教育を一応は受けていた。
失礼だとは承知の上で、どうしても彼に伝えたいことがあった。
「オレに、ですか?」
井駒くんは不思議そうに首を傾げる。
うんと頷いて、笑みを作った。
「αじゃなくても、αに勝てるんだね」
Ωはもちろん、βもαには勝てないと思い込んでいた。
だけど、そうじゃなかったんだ。
もしかしたら、井駒くんは普通の人間とは少し違うのかもしれない。それにしても、αの匂いのしない彼が、αよりも強いなんて素直にすごいなと思った。
「井駒くんみたいなβがいると思ったら、世の中捨てたものじゃないと思ったよ」
「いや、オレは――」
「もしも自分で性別を選べるのなら、井駒くんみたいなβになりたかった」
発情期のないβとは違い、互いに惹かれ合うように作られているαとΩ。Ωを求めるαも、それから僕を含めたΩも、いつだって自分の中の第二性の本能に振り回されていた。
どれだけがんばって結果を出しても、『Ωのわりには』『Ωにしては』と枕言葉がつく。失敗したら、『Ωだから』『しょせんΩ』となる。
βなら、フェロモンにも発情期にも振り回されることもない。自分だけのたった一人の運命の番が世界のどこかにいるかも、なんてありもしない妄想にも縛られずに済む。
想像することしかできないけど、僕もそうやって生きてみたかった。自分の努力だけで評価されて、普通に人を好きになって、普通に付き合ってみたかった。
「僕は、Ωもαも好きじゃないから」
「αが嫌いなんですか……?」
「もちろん、性格の良いαもたくさんいると思うけどね」
さすがにほぼ初対面の子に話す話題じゃなかったかなと反省して、苦笑いを浮かべる。
本当は、αだから、Ωだからどうこうなんて決めつけたくはない。それこそ、さっきの金髪男と同じになってしまう。と、分かってはいるんだけど。
それでも、玲人を含めて身勝手なαにたくさん出会ってきたせいで、どうしてもαは好きになれない。
「それより、さっき何か言いかけてなかった?」
「いえ、何でもないです」
なんだか微妙に含みのある言い方をした気がしたので、少し引っかかった。でも、何でもないって言っているんだし、あまり深く聞いても悪いよな。
腕時計を見たら、針は五時半を指していた。
そろそろ行かないと、六時からのバイトに遅れてしまう。
「時間は大丈夫?」
「図書館で明日提出のレポートやらないと」
井駒くんも時間に余裕がなかったらしく、ハッとしたように言う。それから、忘れ物をしたという後ろの方の机の中身を回収し、大きなブルーのリュックにしまっていた。
「じゃあ、今日は本当にありがとう」
最後にもう一度お礼を伝えて、別れようとした。
「あ、すみません。一つだけいいですか?」
「ん?」
引き止められ、再度井駒くんの方を振り返る。
「百瀬先輩の下の名前が知りたいです」
「?
「亜樹、先輩……」
僕を見つめたまま、井駒くんは教えたばかりの名前を繰り返す。
「オレの名前、
「波留、くん?」
「はい。波留、って呼んでください」
「……波留」
どうして名前呼びをさせようとしているのか。いまいち意図が分からなかったけど、ねだられるままに彼の名前を呼ぶ。
そうしたら、井駒くんの口元が大きく上がった。しっぽもちぎれそうなぐらいにブンブンと振っている。喜んでる、のかな?
「次に会ったら、話しかけてもいいですか?」
井駒くんはやっぱりしっぽをフリフリしながら、僕をじぃっと見つめる。
「え? うん、もちろん」
一瞬疑問に思ったものの、すぐに頷く。井駒――波留とは同じ授業をとってるんだし、会う機会はきっとこれからもあるだろう。
だけど、たぶん今みたいなモフモフした姿を見られることはなさそうだな。モフ耳としっぽが生えてくる条件は分からないけど、あまり人に知られたくもなさそうだから。
もう見られないと思ったら、少し残念だ。可愛いし、手触りも良いし、もっとモフりたかったな。
その日、日付が変わるまでコンビニで働きながらも、波留のモフモフな姿と手触りをことあるごとに僕は思い浮かべてしまっていた。