穏やかな朝だった。
頬を濡らした涙の痕は枯れていた。
レイは既に起きて部屋を出ていた。わたしを一人にしてくれたのだろうか?
部屋にあった鏡で自身の身体を確認する。健康的に焼けた小麦色の肌。眼にクマなんかが出来ていないか確認したけれど、むしろお肌が艶々になっている。これも魔力変貌の効果? それに……もう一つ。前と違った変化があった。
「髪……レイと混ざったみたい」
わたしの銀髪は少し肩まで伸び、臙脂色の艶やかな髪色へと変化していた。これも元に戻るのだろうか? わたしがわたしじゃないみたい。
「はは……はははは」
涙は枯れて流れない。いっぱい愛して貰ったのに、何故か虚しさが込み上げて来る。大丈夫、わたしはアンリエッタ。このまま魔女になっても自我は失わない。お姉さまを助けるんだ、絶対に。
「目覚めたか、アンリ」
「あ、レイ♡」
扉を開けたレイが朝から紅茶を持って来てくれた。そのまま背伸びして親を待っていた小鳥のようにレイを求めると、軽く
「その姿であれば……変装する必要すらないかもしれんな」
「ふふふ。それも好都合ね。これでお姉さまへ近づけるもの」
「闇の魔力は表に出すな。闘技大会の舞台上以外で闇魔法は結界に弾かれる」
「ええ。分かっているわ」
レイが持って来てくれた紅茶をひと口含むと、わたしを支配しようとしていた虚しさや切なさ、昨晩の怒りの感情などが浄化されたかのように、心が少し落ち着いて来た。
「さぁ、行こうか。ここからはクレイとミルフィーユだ」
「ええ、クレイ。行きましょう」
いよいよ始まる闘技大会。この数日間で、わたしの今後の運命が決まる。
◆
巨大な円形の闘技大会会場には何千という観客が集まっていた。会場に入りきれない観客が会場の外を囲んでいる。人混みに紛れ、わたしはジズと観客席へ忍び込む。入口に監視の兵士が居るためだ。何せ有力貴族や他国の王族の方など、重要人物勢揃いの会場。魔法結界も、兵士の警備も厳重だった。まぁ、忍び込んでしまえば、大勢の観客に紛れ、〝透過〟を解いても問題はなかった。
南側の観客席上部には、〝
「お姉さま……お姉さまは……あ!」
居た!
観客席北側、上級貴族や他国からの来賓客用に用意された特別席があり、その最上部にグリモワール王族の座る席が設けられている。エルフィン王子の隣、確かにお姉さまが座っている。
嗚呼、カオスローディアへ追放された時、もう逢えないかもしれないと思っていたお姉さま。心無しか元気が無さそうな気もするけれど、お姉さまはちゃんと生きている。
よかった……。嗚呼……お姉さま。
「さぁ、皆さまお揃いでしょうか? 第三十回、闘技大会が始まります。司会はワタシ、
舞台中央、
「この快晴の良き日に、グリモワール王国で闘技大会を無事に開催出来た事を誇りに思う。この日のため、他国からも沢山の素晴らしい友人が集まってくれた。この場を借りて御礼申し上げる。では、参加者である魔導師も騎士も、日々の研鑽の成果を存分に発揮し、闘いに臨んで欲しい。第三十回、グリモワール王国闘技大会の開会を此処に宣言する!」
観客席から歓声と拍手が沸き上がる。国王の隣にはグリモワール王国の王妃様。国王様も王妃様も普段民の前に姿を見せる事がないため、お目にかかれる貴重な機会だと言える。
『それと、今回は休戦後十年の記念大会という事で、会場になんと、現グリモワール王国の聖女様。クレア・ミネルバ・グリモワール様にお越しいただいております』
お姉さまの名前が呼ばれ、ゆっくり立ち上がったお姉さまが観客へ手を振った瞬間、周囲のお客さんが立ち上がり、大歓声の中、拍手が沸き起こる。わたしも観客に紛れ、お姉さまへ向け拍手を送る。後はこの数日間で、お姉さまとお話する機会を探るのみだ。
開会の儀が順に執り行われ、賞金と大魔女の杖が紹介される。エルフィン王子とクレアお姉さまが座る席と、王様と王妃様が座る席の間、中央に専用の台座があり、大魔女の杖が飾られていた。王様が大魔女の杖を掲げた瞬間は、会場から大きなどよめきと歓声が上がっていた。あれ……。何だろう、この感覚。
『アンリエッタ様、どうしました?』
これは……ジズさんの念話か!
『何かこう、杖が……呼んでいる気がして』
『アンリエッタ様の魔女の力に反応しているのかもしれませんね』
そうかもしれない。杖を見た瞬間、杖もわたしの方を見た気がしたのだから。
レイのお母様。杖、取り返しますから。待っていて下さい。
大魔女の杖も、お姉さま達が座る席も、その空間ごと強力な魔法結界で護られているため、やはり優勝する他、手に入れる手立てはないみたい。
「それではいよいよ本選第一試合が始まります。まずは西門から入場するはぁ~。我がグリモワール王国王宮騎士団長~~ソルファ・ゴールドパーク!」
「「「ソルファ! ソルファ! ソルファ!」」」
割れんばかりの大歓声に吐き気を覚えるわたし。危ない、血が滾るところだった。闇の魔力を必死に押さえ付ける。
『ゆっくり深呼吸してください、大丈夫です』
『あ、ありがとう。ジズさん』
ジズさんの念話がこういう時、頼もしい。心を落ち着かせたところで、ソルファの対戦相手となる選手の名前が呼ばれる。
「続いて東門からの入場は、遥か北の国、ノースブレイクからやって来た! 熊殺しの達人・ビックハン!」
「ビックなのに小せぇぞ!」
「そんなんで熊殺せるのか?」
「せいぜい楽しませてくれよ~?」
罵声と嘲笑……。ソルファの時と大違いだ。背丈は確かに小さいけれど、両手に鋼鉄の爪らしきものを身に着けた男は歴戦の格闘家といった雰囲気だ。凄く鍛錬して来たんだと思う。
兎耳族のピーチは実況席という舞台下に用意された結界に覆われた席へ移動する。代わりに審判らしき燕尾服の男性が舞台中央へと上がる。
「相手が戦闘不能となった時点で試合終了です。殺しは殺した方を負けとします。いいですね」
「嗚呼、勿論」
「心得た」
「それでは、第三十回グリモワール王国闘技大会、第一試合、始め!」
試合開始の合図が鳴った瞬間、ビックハンさんの姿が消えた。
「え?」
「あそこです」
ジズが指差す方向、ソルファの背後に回ったハンさんが爪を真っ直ぐ突き出すも、後ろに回転しつつ大剣で弾くソルファ。あんな大きい剣なのにハンさんの高速移動からの爪による攻撃全てをいなしている!?
「飛べ!」
「何っ!?」
ハンさんが声をあげ、爪を突き立てた瞬間、ソルファが後方へ吹き飛ばされていた。何今の……風魔法?
『魔法じゃなく、格闘術。掌底の応用です』
『凄いですね』
「次は結界まで飛ばす」
「へぇ~、面白いじゃねぇか? じゃあ、こっちも一発、やらせて貰うぜ?」
え?
一瞬、何が起きたのか、分からなかった。気づいた時には、ハンさんの両手が鮮血と共に宙を舞っていて。装備していた鋼鉄の爪が舞台に突き刺さっていた。
「え? いま、何が起きたのでしょうか? ハン選手の後ろに……ソルファ選手が立っています。斬った! 斬ったのです!」
膝をつくハンさん。審判が試合を止めようとするも……会場を威圧する低い声に審判が動きを止めた。
「……おいおい待てよ、蹂躙はこれからだぜ」
もう……此処からは、見ていられなかった。