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第2話 遠い記憶 

 お姉さま遠征当日はとても穏やかで、天より地上を照らす陽光が少し暖かく心地よい朝だった。 


「お姉さま、気をつけて行って来て下さい」

「ええ。アンリエッタも無理しないようにね。魔力の使い過ぎは禁物よ?」

「分かっていますわ。お姉さまが居なくても、立派にお勤めしてみせます」

「困った時はソルファ卿を頼りにするといいわ。あの人とお付き合い、始めたんでしょう?」

「え!? お姉さま、どうしてそれを!?」

「ふふ。あなたの事をいつも見ているからよ」

「でも、ソルファ様は神殿長に紹介されただけで、まだそんな親密な仲では……」


 ゴールドパーク公爵家は王宮との結びつきが強い有力貴族の一つ。わたしが聖女の妹という肩書きを持っているからなのか、そんな公爵家の嫡男であるソルファ・ゴールドパーク卿を神殿長から紹介された時は驚いた。


 恋仲となった相手をお姉さまが頼りにするよう提案してくれるのは有難いけれど、わたし自身、まだあの人の事を信じ切れていないところがある。わたしはわたし自身の力で苦難を乗り切って、お姉さまが早く帰還出来るよう、女神さまへ祈っておこうと思う。


「クレア様。そろそろ時間です」

「ええ、分かりました。またね、アンリエッタ」

「お姉さま、お気をつけて」


 こうして神殿の人達に見送られながら、お姉さまは王宮騎士団の人達と、ルワージュ神殿長と王都を出発する事となった。


 お姉さまが不在となっても、王国の汚染された場所を〝浄化〟するお仕事は待ってくれない。この日もグリモワール王国地下に浸水する汚泥水を〝浄化〟していく。自身の魔力が減ってくると額から汗が滲み、少し呼吸が苦しくなる。〝治療〟であれば神殿所属の神官クレリックでも可能なため、横から支援してもらいつつ、自身の魔力が枯渇しないよう制御コントロールする。なんとかその日の業務を終えるわたし。お姉さまが居ると居ないとでは大違い。


 でも、こんな時だからこそ、わたしが頑張らなくちゃいけない。魔物討伐を要する現場への派遣任務は命の危険を伴う事も多い。お姉さまが大変な事態に巻き込まれていないか心配だけど、わたしは無事に帰って来てくれる事を祈るばかりだ。


「お姉さま……生きて、帰って来てください」


 この日、エルフィン王子への謁見はなく、わたしは自身が思っていたよりも穏やかな時間を過ごしていた。寧ろ王子はただ、わたしに興味がないだけなのかもしれない。


 夕食の時間となり、わたしは昨日お姉さまが作ってくれた二日目のホワイトシチューを一人口に含む。王宮併設の神殿には神職の神官クレリックにシスター、お世話係の侍女と百名近くの人間が生活しているが、お姉さまが居ない時、任務の時以外は誰もわたしに近づこうとしない。こんな日は早く寝るに限る。早めに自室に籠り、ベッドで眠りにつこうとするわたし。一人の時は、よく昔の出来事が脳裏に呼び起こされる。


 それは、お姉さまと過ごしたかつての遠い記憶――



 創世の女神ミネルバ様の加護が宿るセイントミネルヴァ山の麓。大地を流れる聖なる川の水は煌めき、魚たちが優雅に泳ぐ。〝豊穣〟の力によって潤った大地に草木は茂り、色彩いろどり豊かな果実が実る。生命のエネルギーが満ち溢れる大自然に囲まれた村にある小さな教会。


 お姉さまとわたしは、教会のシスターである母と一緒に慎ましく暮らしていた。


「クレア、アンリエッタ。みんな~。ご飯出来たわよ!」

「ありがとうございます。お母様」

「わ~い! お母様のホワイトシチュー、大好き~!」

「今日もミネルバ様の加護に感謝し、此処に祈りを捧げます」


 この世界はミネルバ様の〝加護〟に満ちており、お祈りする事で〝加護〟の力が使える。お母さまが教えてくれたお陰で、すり傷程度ならこの頃のわたしも自分で治せるようになっていた。


「お母さま、今日ね。こーんなおっきなお魚釣れたんだよ~!」

「あら凄いわね、アンリエッタ」

「お母さま。アンリエッタね、お魚さんのお口の傷を治してちゃんと川に返してあげたんですのよ」

「お姉さま、それは言わなくていいよぅ~」

「あらあら、アンリエッタは優しい心を持っているのね」

「えへへ」


 お母さまに頭を撫でられ、嬉しさの余りわたしの口元が緩んでしまう。昔からこうやって褒めて貰う事が好きだった。


 この時のわたしは当時六歳、お姉さまは八歳。まだ王国や世界の仕組みなんて知る由もなかったわたし。羊や山羊のお世話をしながら、お姉さまと野山を駆け回り、川でお魚を釣って、教会に来る村の優しい人とお話して、お母さまの料理をいただく。これが、わたしにとっての日常だった。


 お母さまのホワイトシチュー。教会の裏で採れたお野菜の旨味がいっぱい入ったシチュー。お姉さまが今も作ってくれるその味は、わたし達姉妹の思い出の味。こうして野菜の甘味を堪能していた時だった。


 刹那、轟音と共に食卓の窓硝子が割れ、飛散する。何が起きたのか分からないまま、わたし達は食卓の奥まで吹き飛ばされてしまう。


「アン……リエッタ……大丈夫?」

「お姉さま!? どうして!」


 わたしが気づいた時には既に、お姉さまが覆い被さるようにしてわたしを抱き締めてくれていた。木片がお姉さまの背中に突き刺さっており、血が流れている。


「クレア、アンリエッタ! 大丈夫よ。じっとしていて。すぐに治療しますから!」


 窓の傍で両手を広げていたお母さま。両の掌は淡い光を放っていた。もしかしたら、あの瞬間にわたし達を守ろうとしてくれたのかもしれない。外から聞こえる轟音と震動が、村の異常事態を告げている。続けて開け放たれた扉から何者かが部屋へと入室して来る。


「レイシア! 王都と村。君の創った二つ結界が破られた。今すぐ来て欲しい」

「ついにこの日が来ましたか。分かりました。すぐに向かいます」


 剣と甲冑を身に着けた人達と村の人。お母さまが大人の人達と何やら二、三、会話をしていた。彼等に待ってもらうよう伝えたお母さまはお姉さまの背中へ掌を当て、祈りながら背中へ突き刺さった木片をゆっくり引き抜いていく。お姉さまの傷がみるみる内に塞がっていき、淡い光の温もりがわたしにも伝わって来ていた。


「クレア、アンリエッタ。私の魔法で教会に結界を張っておきます。お外が静かになるまで、礼拝堂の地下へ避難していて。クレア、妹をお願いね」

「わかりましたわ、お母さま」

「アンリエッタ。クレアにはお話していたんだけど、ママね。グリモワール王国の聖女なの。だから、困っている人たちを助けにいかないといけない。それが聖女の使命であり、運命だから。アンリエッタにはまだ難しいお話かもだけど、用事が済んだらママすぐに戻って来るから。お姉ちゃんと此処で待っていてね」

「うん。わたし、だいじょうぶ。行ってらっしゃい、お母さま」

「いい子ね、アンリエッタ。行って来るわ」


 この日、強く抱き締められたお母さまの温もりをわたしは今でも覚えている――


それから数日後、瓦礫の中から地下室への階段を発見し、現王国の神殿長であるルワージュ様がわたし達を見つけてくれた。


 ねぇ、知ってる? 失われた魂は煙になって天上へと昇って、お星様になるんだって――


 ふと、そんなお伽話の逸話を思い出した。


 戦争という言葉はこの時初めて知った。教会も村の見張り台も、建物も、何もかもが跡形もなく崩れ落ち、瓦礫から僅かに上がる煙が天上へ昇っているのが見えた。


 お母さまは最期まで人々の命を救おうと自ら戦場に立ち、そこで命を落としたのだという。優しかった村の人々も、お母さまも誰も居ない。


 わたしの瞳から流れ落ちる雫は三日経った頃には枯れ果てて、残ったのはずっと隣でわたしの手を握ってくれていたお姉さまの手の温もりだけ。


「大丈夫よ、クレア。わたくしはいつまでもあなたと一緒だから」

「お姉さま……ありがとう」


 いつまでも下を向いていては駄目だ。そうやって上を向いた時、この日見上げた青空がとても澄んでいてどこまでも真っ直ぐで。わたしは生きなきゃって思ったんだ。


「決めた。じゃあ今度はわたしがお姉さまを護るね!」

「ん? どうして?」 

「だって。ほら、空はこんなに青いんだもの。お姉さまを護る理由なんて、それだけで充分でしょう?」 



 結果、グリモワール王国の神殿に引き取られたわたし達はこうして聖女としての教育を受け、お姉さまはお母さまの意思を継ぎ聖女となり、わたしはその妹として此処に存在している。わたしという存在は何なのか? いつも護られてばかりのわたしはお姉さまのお役に立てている? 


「……眠れないや」


 自室のカーテンの隙間から入り込む月灯り。この日は満月。聖と闇、二つの相対する魔力が満ちると言われている日。ベッドからゆっくり降りたわたしは、手織りのケープを羽織って回廊へと歩を進める。


 神殿の夜は静かだ。虫の声もない。静寂だけが支配する世界。月光はわたしが一人歩く神殿の回廊を妖しく照らしている。


(あれ? こんな時間に誰か起きているの?)


 ちょうど回廊の向こう、神殿のお世話をする侍女達の部屋の一つから灯りが漏れ出ている様子が見えた。灯りに導かれるがまま、扉の隙間からそっと中を覗いたわたしは……言葉を失った。



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