切っ先が服を貫き、皮膚をかすめる。
すると、血が出る。
刃が肌を切り裂き、肉を突っかける。
すると、血が出る。
刃物とは何かを斬るための道具だ。
だから、刃を触れさせ、引く、あるいは押せば、血が流れる。これは、当たり前のことだ。
その『当たり前』の裏にとてつもない奇跡があることなど、これまでの
大軍を掘り進む。
敵を斬り、
左手と両足の三足歩行で進む。地面が近い。土いきれと血のニオイが混ざる。『戦場』のニオイ。
千尋の『戦場』は合戦場ではなかった。
千尋の前世において、もはや合戦というものはなかった。ただ一人の頂点たる将が天上におり、かつての時代に敗北した者どもがそれに従っていた。
そもそもにして合戦のあった時代に『剣』を極めようなどと、そんな者はただの道楽者。千尋個人の趣味趣向はどうあれ、数万にものぼる弟子が剣術の流派に来るなどというのは、合戦の最盛期にはありえぬことであっただろう。
一定の豊かさ。
さりとて多くの者が『戦い』というものに憧れに近い感情を持っている状況。
さらにはその時代には滅多に戦いはないものの、自分たちの現在の身分が『かつての戦い』の果てにあったという自覚あらば、『剣の腕前』が『嗜み』として多くの者に重要視されている時代性。
そういった時代に生まれた人斬りこそが、前世の宗田千尋であった。
そういった時代に──
もしも、合戦の大軍に一人斬り込むことになったら、どうするか、などと。
……そういうことを考えてしまった
(夢のような時間だ)
弱さを渇望した。
敵が欲しかった。
この身には生まれつき、ひどい乾きと冷たさがあった。
血のぬくもり、命の残滓、勝負のあとの熱量が、ただこの渇きを癒し、身を温めてくれた。
その心地よさに浸っていたくて、気付けば流れの剣客に弟子入りし、故郷を飛び出していた。
剣の腕前というのが立身出世の道具になっていた時代である。……とはいえ、すべての剣術が立身出世につながるわけではなかった。大衆向けの、わかりやすく、格好よく、体裁のいい、何より伝統もある剣術。そういうものが、『武士の持ち物』としてもてはやされていた。そういう時代。
殺し合いでの強さなど意味はなかった。そもそも実戦のない時代。実戦などする者は後ろ指刺されるような時代。そういう時代に必要なのは、『強い』ではなく『強そう』なのだ。
千尋の前世の師匠は、『強い』剣客であった。だが、『強そう』ではなかった。
それがよかった。あるいは、悪かった。
気付けば千尋は、あのきらびやかな、剣術というものがただの『資格』に成り下がった時代に、『本当の強さ』と『命のやりとりの喜び』を覚えてしまっていた。
……最初から心にあった素養は、矯正されることなく、行き着くところまで行きついてしまった。
時代がそれを肯定しなかった。
合戦の世であれば、と幾度も思った。
闇試合に勝ち、いち財産を得た。『強さ』を比べ合う相手がいなくなり、気まぐれで弟子をとった。強くなってほしかった。だから、必死に『教え方』を考えた。単純化し、わかりやすく、弟子が強さをきちんと志せるように、『喜び』を配置した。そうして体系化した術理は多くの者に受け入れられた。弟子が弟子を呼んだ。その弟子がまた弟子を呼んだ。
気付けば、背負った看板は──
(『実戦派剣術道場』──フッ)
思い出すだけで笑ってしまう。
実戦派。
ならば、なぜ、こんなにも多くの弟子がいる?
ならば、なぜ、こんなにも多くの者に受け入れられる?
誰も死んでいないではないか。
誰も『実戦』などしていないではないか。
誰も──
──この俺に、挑みかからぬではないか。
もてはやされるたび心が乾いていく。
慕われるたび心が冷えていく。
何が足りぬのか必死に考えた。足りぬものは『弱さ』だと気付いた。
だが、弱くなる方法がわからなかった。何をしても強さを示してしまう。どのような行動をしても畏れを生んでしまう。
だから外部に『弱さ』を求めた。妻を得て、子を得た。弟子もまた、弱みと言えなくもなかった。それを突く者も最初はいた。だが、たいていは千尋が姿を見せただけで、よくともただ一太刀見せただけで、相手は平伏し、命乞いをした……
命が惜しいならば、なぜ『弱さ』を突くのだろう?
『弱さ』を突いたならば、それは殺し合いをしてくれるという意味ではないのか?
だが、世間は『そういうもの』だった。
弱さを突いたからといって、相手を罵倒しても、相手に剣を向けても、額を地面に着いて許しを乞うたならば、それ以上追撃をしてはならぬ。それが世間の風潮。
風潮を無視し、世間を敵に回し、それでもなお暴れてやろうかと思ったこともあった。
だが、しなかった。……それは千尋に『世間』と『それを回す人』への尊敬があったからだ。しかし、もちろん、それだけが理由ではなく……
『世間』にまで命乞いをされては、たまらないから。
考え得る限りでもっとも強大と思われる敵が、そこらの度胸のない雑魚のように許しを乞うてきたならば、いったいどうしたらいいか、わからなかった。そうなることを恐れて、千尋は、もっとも強く、そして『個人』ではないモノを敵に回すのを避けた。
弱さだけでは足りないのだ。
時代が、戦を望んでいないと、逃げられるのだ。
戦意をなくした者の首を刎ねるのが面白いはずがない。そもそも、千尋は殺しを望んでいない。望むものは殺しの途中にある。だからこそ、相手が戦意を失うような、失っても許されるような時代に、居場所はなかったのだろう。
だが、今。
戦が、ここにある。
斬っても斬っても逃げぬ人の群れがある。
こちらを殺そうという気迫がある。
「あの白き部屋の妖魔鬼神に感謝を捧ぐ! 俺は、今、『生きている』!」
感謝を奉じる。
大軍を進む。
これはこれで永遠に続いてほしい時間であった。
だが、そろそろ……恋しくなってきたものがある。
軍だの世の中だの、形のない、数の多いものの中を斬って進むのも、それはそれで楽しい命のやりとりだが……
そろそろ。
『強敵』が恋しい。
……大軍を、抜ける。
『場』は用意されていた。純白の巫女装束をまとった神官たちによって整えられた『空白地帯』。
担がれた輿に乗る者、青田コヤネ。
輿を下りながら太刀持ち五人ががりで支える大長巻に片手を差し出し、受け取る。
受け取った大長巻を片手で持ち上げ、声を発する。
「敬意を表しましょう。あなたは、よい『練兵』の相手となりました。……後ろの八名も」
静かな声だった。
強者の余裕がある。勝利を確信した者の慈愛がある。
これから死する者への哀れみがある。
「九名でよくぞここまで来ましたね。褒美として、まとめて、わたくしの太刀で天女様の
だから千尋は、笑った。
「そいつはつまり──『どちらかが死ぬまでやろう』という意味で相違ないな?」
「……? まだ、生きられるおつもりで?」
「ああ、なるほど、なるほど。よぉくわかった。そういう手合いはなァ……いざ自分の首に刃を触れさせられると、『こんなはずじゃなかった』などと逃げ口上を言い始める。なので、一言、申し上げておこう」
「……」
「
「やはり、正気ではなかったのですねぇ」
「応ともよ。俺の正気なぞ、俺自身さえ保証しかねる。だから、一つだけ理解しておいてくれ」
千尋は刀を構える。
その構えは、あるいは構えではなかった。
ただ右手で刀を持って、だらりと腕を下げている。
左手は握るでもなく開くでもなく、これも、だらんと下げている。
足はかかとまでべったりと地面に着き、足幅はほぼ肩幅と同じ。つま先が両方とも真っ直ぐに相手へ向いている以外には、おおよそ『これから戦う者の姿』とは思えない。
気配もそうだ。完全に油断し、力が抜けている──そうとしか見えない立ち姿であった。
だがその構えこそ、宗田千尋本来の構え。
完全なる脱力と、常在戦場の平常心。
そうして極みに至った技巧と──
多少手荒にしても壊れず、奮えば必ず相手の血が舞う切れ味を誇る剣があってこその、構えである。
「正気ならざる者に手を出したら、『行くところ』まで行くしかないぞ」
「……」
「さて、斬ろうか」
切っ先にまで気力が充溢していくのが、千尋には自覚された。
目の前に立って確信していた。
敵総大将青田コヤネ──
確かに首に刃の届く敵である。
この刃なら、届く、敵である。