その日、天女教軍が侵攻を止めていたのは、『余裕』からだった。
敵の精神的支柱の一人、かつこの里の長である
本来であれば立場・武装・人数の差からここまでの苦戦などありえぬはずの相手であった。それだけに、一度は陣を布きかけた里内から夜襲によって追い出され、その後も攻めあぐねいていたのは、『相手が強かった』という印象を生む。
天女教軍の中ではここ数日で『天野の里衆』が『とてつもない強敵』に格上げされていた。
それは同時に、ここまでの大軍を率いてなお、天野の里衆を倒しきれない天使、
このたび、青田コヤネ出陣によって三太夫を追い散らしたあと……
天女教の兵卒の一人は、こう思うようになった。
(コヤネ様が出れば片付く。……我らは機会を与えられていたのだな)
この軍にはコヤネ以外の天使がいない。
天使──現代の天女教、その軍属の者にしてみればその位階は、『教団内での武の
ところが、ここにまで昇進する手段はない──というか、『昇進』によって『真面目に勤続を続ければいつかたどり着くもの』ではないのだ。
天使の任命は天女による
そもそもにして『宗教儀式における天女の代行者』が天使であったので、儀礼関係の人材だけは『昇進』により天使になることがありえた。しかし、今のように『武の象徴』となってしまうと、御前試合への出場権を得て、そこでいい結果を示すといった方法しか天使になるルートがない。そのルートとて、下々の者には『天女様の気分次第』としか映らない。
その前提で、『なぜ、コヤネが出れば片付くのに、なかなかコヤネが出なかったのか』を『コヤネ以外の天使がいない軍』の中で考えてみると……
(もしも目覚ましい戦果を挙げる者あらば、コヤネ様によって、新たな天使に推挙していただけたのやも)
こうなる。
もちろんコヤネはそのような約束はしていない。
この、天野の里衆本拠地の最前線で警戒を続ける巫女兵卒はもちろん、全軍誰も、コヤネが『戦果目覚ましき者、天使に推挙する』と言ったのを、聞いたことがない。
だがおどろくべきことに、全軍の半数以上が、『先の戦いは、天使推挙のための試験であったのでは』と思っている。
ここがコヤネの天性の才能だ。
彼女は、察させること、察させないこと、その両方がうまい。
言葉にせずに嘘をつくこと。それこそが、優れた神力と、『まるで目の前にいきなり現れるがごとき神力能力』を持つ血統の他の、もう一つのコヤネの強さであり怖さである。
(残るは里外れの
かくして全軍の士気は無言のうちに高まり──
誰もが。
総大将のコヤネでさえもが。
『三太夫を失った天野の里は、もうこれ以上激しい抵抗はしない。ゆえに、あとは消化試合の殲滅戦だ』と思っており……
最後の消化試合を万全に行うために、休憩をしている。
だから一気に相手を総崩れにしないのは、紛れもなく『余裕』によるものなのだ。
天女教は大軍であり、訓練を積み、装備もいい。士気も、コヤネの『言葉にしない嘘』によって、『ここから先、天使に推挙されるための最後の機会だ』と思われているため、高い。
苦戦はあるかもしれない。だが、結果は『勝利』で定まっている。
客観的に見て紛れもなく事実だ。だからこそこれは、『油断』『慢心』ではなく、『余裕』。全軍が十全に休憩し、平等に『天使に推挙されるための最後の戦い』に挑めるようにするための、自軍のための休憩なのである。
……最初からそうだが。
青田コヤネはそもそも、天野の里と『戦い』をしているつもりがない。
相手がこうくるからこう、という考え方で軍を動かしていないのだ。
自軍の練兵のための演習として戦いを仕掛け、林の方には個人で飛び出しそうな跳ねっ返りを集めて様子を見て、他二つの正面軍でも細かい指示はせずに現場に任せて、判断力を養い、経験を積ませた。
そうして全軍の士気を見極め、これ以上苦戦すると忠誠にもかかわるなというタイミングで練兵をやめ、倒しにかかった。
圧倒的軍勢を前提にした練兵なので、その用兵はすべて自己都合によるもの。
そして、その自己都合がなければ、天野の里は一日ともたずに敗北していたのも事実。
おまけに今は三太夫という里長がいない。これでは、天女教の勝利はゆるぎないに決まっていた。
だが。
天野の里攻めの最初とは、たった一つ、条件が異なっている。
「……ん?」
朝日が昇り始めた時間である。
斥候だの偵察だのは出されていない。これもまた『余裕』ゆえのこと。
総大将のコヤネとしては『相手が逃げていくならそれでもいい、相手が向かってくるなら最前列の兵士が発見するし、その段階での発見でも勝利はまったくゆるぎない。それよりも、ただ全軍を休ませて備えた方が、士気が勝手に高まっていくだろう』という判断でのことである。
その判断はもちろん、自分たちが大軍であることを前提にしているが……
コヤネたちは一つの重大な情報を受け取れていなかった。
『林を包囲させていた軍勢の後退』を知らない。
たった八人──とまではわからずとも、十名か二十名程度であろう天野の里衆に、手も足も出ず、全軍の三分の二を負傷者にされ、助けに行くたび負傷者を増やされ続けたという情けなさ過ぎる『戦果』を報告しあぐねいていた林包囲軍から、まだ情報を受け取れていないのである。
だから、『彼』を最初に発見したのは、軍の最前列であった。
登り始めた朝日に向かって歩む、小柄な巫女。
天女教の様式とは微妙に異なる巫女装束だ。だから、天女教所属の者ではなく、旅装としての巫女装束であろうというのがわかる。
降伏に来た──という様子でもない。
何せその者、抜身の刀をひと振り、手にしている。
しかし、その歩みのあまりにのんびりした様子、さらに兵法上愚かな『日に向かって進んでくる』ということ……
さらに言えば、その者の背後に続く連中、十名もいないこと。
そういったことから、
「なんなんだ、あいつらは?」
何をしに来たかわからない。
降伏という様子でもないし、攻めかかるにしては時間帯も悪く、人数も少なすぎる。
だから天女教の行動は、『何をしに来たかわからないが、とりあえず武器だけ構えておくか』というものになる。
報告をしよう、という気にもなれない。
……すべきなのは、そう。だが、『天使に推挙していただけるかもしれない』という、コヤネが言葉にせずついた嘘が浸透している。その状態で、全部で十名もいない小勢が来たのをいちいち報告するのは、『上を煩わせて覚えを悪くするのも面倒だ』と思ってしまうものだった。
現場で対応可能な数である。
だから、現場は対応すべく……
最前線の中でもそこそこ位がある者が、
「何用か!」
軍人たちの普段の業務は訓練が主であり、それ以外には門番業務なども行っている。
ゆえにこそ、不審者にはまず『何用か』と問う習慣があった。
……問答無用で取り囲み、集団で突き殺すべきであったと思うのは、このあとの話。遅すぎた後悔。
先頭に立つ、
「斬りに参った」
静かだが通る声が、明け方の戦場に響く。
天野の里攻め当初との、『たった一つの違い』。
『最高の刀が仕上がっていること』。
こうして、困惑と混乱、脅威だの敵だのと思われることもなく……