なぜ、現領主
酒匂というのはこの街で生まれた男装女優であった。
小柄で細い、『男の子みたいな』体つき。
気が強そうで傲慢で、すべてが自分に奉仕して当たり前と思っているかのような、『男の子みたいな』顔つき。
酒匂は、その性質も容姿も、多くの者にとって理想的な『王子様』だった。生まれついた時から男装女優になるために存在した、天女様が間違えて女にしてしまっただけで、本来は男として生まれるべき魂を備えていた──
そういった数々の
では、当人がどう思っているかといえば……
「本当に最悪。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! ねぇ! お前もそう思うでしょう、
そのすべてを一望できる高い塔の最上階にある一室で、酒匂は暴れていた。
価値ある茶器が床に落とされてカケラを散らし、上等なテーブルクロスが茶と酒にまみれて汚れていく。
砂糖をふんだんに使った上等な菓子が床に落ちて砕けていた。
お茶とフリルと砂糖菓子。
女の子を形作るものをたくさん身に着けた。
それでも酒匂は、『最高の男装女優』としてしか見られない。
「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い……! アタシは、女なのに! アタシは、男の代替品じゃない! だっていうのにこの街は、いつでもアタシを男のままにする! ねぇ夜籠、許せないでしょう!? 許せるわけないわよねぇ!?」
酒匂は──
どうしようもなく、女性だった。
男扱いが我慢ならなかった。
女として生きたかった。
だというのに、この街がある限り、いつまでも酒匂は男性のように扱われる。
男性。
すなわち、『被庇護者』である。
脚を出さない服装。短く整えた髪。
力がなく守られるだけしかできない存在。
そのくせその希少性ゆえに傲慢な者が多い。
「アタシはアタシの力でここにいる! だっていうのに、あいつら──」
酒匂が今しがたまでしていたのは、街を支援する者たちとの会合だった。
酒匂の強さのうち大きな一つが、『外部とのコネクションの強さ』にある。
超人気男装女優が領主になるということはつまり、男装女優時代の
この外部支援者との太いパイプこそが、外交上、領主に求められる力である。
ゆえに情勢を知る者こそ、太客を多数抱えた男装女優こそ領主にふさわしいというのを理解する。結果、酒匂を支持する。
「──いつまでもいつまでも、アタシを男みたいに扱って!」
男性は脚を出すような格好をしてはならない。
下半身を冷やすと、子種が減ると言われている。だから、露出は許されない。男性が希少なこの世界において、男性が体を冷やしてその生殖機能を損なうなどと、そのようなことは万が一にも許されない。
男性は茶や酒、砂糖菓子を口にしてはいけないと言われている。
それらは身体に悪影響を及ぼす、『強い女のための物』だからだ。男性は健康に気遣わないといけないし、誰かが気遣ってやらないとすぐに体調を崩す脆弱な生き物だから、そういう刺激物は与えられないように管理されている。
男性はあまり派手派手しい格好で着飾るのを許されない。
なぜなら存在そのものが天女様の賜物であるから、これを余計に飾るような装飾、服飾は男性をもたらした天女様への不敬とされる。
お茶にお酒、フリルにミニスカート。砂糖菓子。
すべてすべて、女の子のためのもの。
酒匂はそれを揃えた。
女の子らしいもので武装して、今、この場所にいる。
だというのに、街の外の者からすれば、酒匂はいつまでも、『理想の王子様』のままだった。
傲慢でわがままで、自分が選ばれた希少な生命であることを自覚し、けれど弱々しく、つい気遣ってあげたくなる危うさがある……
そういう存在のまま、だった。
「ねぇ夜籠」
ひとしきり部屋を荒らしまわったあと、酒匂は不意に静かな声を発する。
「あの
酒匂の対抗として担ぎあげられた
その理由は多数あるが、最も大きなものは、金色が『女らしいから』である。
あの傷のついた顔。
力強さを感じるあの存在感。体の起伏、くびれもいかにも女性らしい。すべてが平らで男らしい酒匂とは、何もかもが正反対の女──
皮肉な話だ。
街の外の者は、遊郭領地の領主に『男らしさ』を望む。
だが、街の中の者は、自分たちの上に立つ領主に『女らしさ』を求め始めた。
「……もっともっと、搾取してやる」
声には空寒い迫力があった。
「アタシは強くて女らしい領主よ。そうでしょ、夜籠。ゆっくりと街を滅ぼすのなんかやめてやるんだから。気に入らない街の外の連中に媚を売るのも、今のが最後。街を滅ぼして新しい人生を歩もうだなんて、半端さが……『男らしさ』がいけなかったのよね、そうでしょ。だから、『女らしく』いくのよ。覚悟を決めて、突き進むの。何もかも振り切って、力強く、ね。そうでしょ、そういうのがいいんでしょ、アンタも」
夜籠は、ただ静かにそこにいるのみだ。
領主酒匂の物言いは、問いかけの形式が多い。
だが、実際にそれを『問いかけだ』と判断して答えた者は、厳しい罰を課せられる。
彼女は問いかける。
だが、答えてほしいわけではない。
同意さえも、求めていない。
お追従などしようものなら、憎悪の対象になるだけだ。
酒匂は、たくさんの太客を得て、多くの人に愛されている。
恐ろしく、気まぐれで、慕われてはいないが、愛されている。
だが、酒匂はいつでも、一人だった。
夜籠は酒匂の声に答えず、ただそこに立っているだけ。
だが……
(この領主の下でしか生きられない者もいる。……あるいは、この領主の下で生きたい者もいる)
考える。
(私は、どうだろう。この領主の下でしか生きられない者か、それとも、この領主の下で生きたい者か)
考える、けれど。
夜籠は、自分の気持ちが、わからない。
一つ確かなことは……
(金色と話すことはない。……私は、酒匂の陣営にいる)
かつて救った幼馴染。
ともにこの街で生まれ、男装女優を目指していた幼馴染。
誘拐された彼女を助けようと思った理由は、なんだっただろう?
正直なところ、夜籠にとって金色というのは、そこまでしてやる理由もない相手であったように思う。人生を棒に振るような蛮行を──お
しかしあの時、夜籠の中には確かに、『こいつを救って死罪になっても、それはそれでいいか』という気持ちがあった。
実際、酒匂の一声がなければ死ぬところであったが、一片の後悔さえもなかったのだ。
(
なぜ、金色を助けるのに命を懸けたのか。
なぜ、酒匂に仕えるのに人生を懸けているのか。
その理由は……
(私は、自分の命に価値を感じていないだけの者、なんだ)
己でさえも掴みかねていた答えが手に入ったような気がした。
それはあまりにも、暗く寂しい答えだった。