あたりは灯りのない暗闇。
相手は黒い
武器は布の帯がごとき柔軟性を持つ異形刀。
その刀を鎖鎌の分銅が如く回す──と、甲高い、耳を突くような音が鳴る。
ピーヒョロロ、ピーヒョロロロ……
大きな音ではない。だが、高さゆえに離れていてもはっきりと聞こえる。
刺客は──
しばし剣を回したあと、
千尋はその動きに違和感を覚える。
(動きが大きい)
立ち姿、雰囲気、気配、すべて、まごうことなく手練れである。
だというのに、暗闇の向こうで放っていた殺気、今しがたの動き、何より……
(剣を振った、狙いは、俺か)
……酔いつぶれて眠る
しかもその『千尋を狙った剣』とて、放つ際の動きが大きく、軌道が直線的ゆえに、わずかに身をひねるだけで回避できてしまう。
背後から引き戻す際に攻撃があるかと期待したが、それもない。
未熟ゆえ、粗忽ゆえ、あるいは使い方をわからぬゆえの動きではないだろう。
(なるほど、よくよく見れば、殺気はあれど殺意がない。この女、
相手の動きは己の失敗を願うもののように見えた。
……とはいえ、剣の速度、そして暗闇の中でしなる細い剣が、おおよそ剣とは思えぬ軌跡を描いて飛んでくるのだ。並の使い手であれば、今ので殺されていたことも確か。
(見届け役でもそばにいる、といった様子だな。なるほどなるほど。……相手は本気を出す気がなく、俺は剣がない。まぁ……お遊び、互いに飛車角落ちといったところか)
であるならば千尋の目的は、こうなる。
(『金色を狙ったが殺せなかった』という言い訳が立つぐらいには、付き合ってやろう)
再び、甲高い音とともに、布帯が如き剣が放たれる。
千尋は暗闇の中から迫る剣をわずかに首を傾けて回避。そのまま地を滑るような動作で相手との距離を詰める。
二歩も詰めると、黒い女の目つきが変わった。
千尋、すり足でただ二歩詰めただけである。
だが、五歩ぶんの距離を潰している。
歩む瞬間に
身が落ちた瞬間、その落ちる力を踵にかけ、地面との抗力を発生。その力で以て体を前へ押し出す。
するとただ一歩歩んだように見えて、数歩ぶんの距離を一気に詰めることも可能。
今の肉体であろうとも、この歩法の肝は身体操作であるので、千尋の技量であれば一気に七歩までの距離を詰めることができる。
それをわざわざ、小刻みに二回も踏んでみせたのは……
(さァ、俺は
技量を見せて、相手のやる気を引き出すため。
そのメッセージは黒い女に伝わったらしい。
女が剣を回す速度を上げ、髪に隠れていない方の目をわずかに細めた。
ピーヒョロロロロロ……
甲高い音が響き、剣の切っ先が目では追えない速度に到達する。
瞬間、相手の動きではなく不意に襲い来た怖気に反応して半歩下がる。
その刹那、千尋の鼻先を頭上から霞める剣。
布帯のごとき刀が剛剣を思わせる勢いで地面を叩き、落雷のような音が立つ。
周囲でざわめく気配──
(見届け役が、大音声に反応したか。なるほど、目撃者が出るのはまずいという意識はあるらしい。ならば)
千尋は滑るような動作で黒い女へと接近していく。
女の手の中で甲高い音が鳴り、切っ先が消え去ったかと思えば、想像もしない角度から飛んでくる。
暗いゆえに視界が悪いから見えない──という程度の話ではない。
ああいった鎖や紐状武器のもっとも恐ろしいところは、同じように回す動作から、縦横無尽にどこからでも攻撃が来るという、手元を見ていても攻撃の軌道が予測できないところにある。
前世において『ヒョウ』なる『紐の先に棒手裏剣がついたような武器』と戦ったことがあるが、あの連中、紐を回し、放つかと思えば、肘を張って回転の径を調整しタイミングをずらしたり、上から振ってくるかと思えば脚で蹴って軌道を変えたり、前から貫く勢いで放ったかと思えば、それがこちらの剣を絡めとる布石にもなるという……
とにかく読みにくい手管をさんざん使ってきた。
その時は鋼を撚り合わせた紐を斬って対処した。
だが今、剣はなく、そもそもあの異形刀は
それに、千尋には、かつてのヒョウとの戦いを経て、後悔していることがあった。
武器破壊などと、もったいないことをしてしまった。
できれば、あの使い手の技術を十全に発揮させ勝利するべきであった、と。
その時にできなかったことが、今、できる。
千尋は距離を詰めた。
その迷いのなさすぎる歩みに、黒い女が戸惑ったような顔をする。
だが剣を止める気はないらしい。『これはどうだ?』とばかりに放たれる、殺意のない剣。それは真っ直ぐに千尋の顔面を刺し貫く軌道で迫っていた。
千尋、剣が放たれる前には避けている。
この世界の女の手練れが剣を振ったあとに避けては間に合わない。速度は
わずかに体を横にずらして回避。
頬を剣が裂き血が舞うが、気にするはずもなく前進。
伸びた剣が首を断とうと横薙ぎにされる。
(それは──
平突きからの横薙ぎ。尋常なる剣でもよくやる
仮にこの横薙ぎを剣で受ける展開があれば、布帯のごとき剣は受けた剣を基点に回るように動きを変化し、首を刺し貫くであろう。
だが剣を持たぬ千尋にその行動はとれない。ゆえにただの横薙ぎはしゃがんで回避し、しゃがむ勢いを利用してさらに距離を詰める。
しかし黒い女も手練れであり、ここまでの流れで千尋の『巧さ』も理解したのだろう。
剣の術理を知らぬ者からすれば妖術のようにしか思われない千尋の巧さを理解する。それだけの手練れという証左。
避けてみろ──千尋がしゃがむ直前に見た女の顔からは、そのような言葉が読み取れた。
ぞくりとする。
千尋は笑う。
「たまらんなァ!」
上から殺意。
平突き、横薙ぎから、唐竹割に変化。
だがそれだけではないはずだ。千尋は身をよじりながらも前進。螺旋を描くように回りつつ黒い女への距離をさらに詰める。
すでに拳が届く間合い。背後からは雷でも落ちたかのような音──剣が地面を叩いた音。
剣は伸びきっている。この状態なら、地面を叩いた勢いで戻そうとしても千尋の拳の方が速い。
とはいえ千尋の力で女に痛手を与えることは適わない。だが、千尋のことを女だと思っているのであれば、拳が届くより先になんらかの手管を用いるはず──
すでに気持ちは、殺し合いに達していた。
しかし……
「なんの騒ぎだい!?」
度重なる落雷のような音に、周囲から声が聞こえ始めた。
「お付き合いいただき感謝する」
黒い女が、ほんの小さな声で告げる。
つまり、戦いは終わり、ということだった。
千尋は背後から並の速度で戻ってくる剣を避ける。
剣を戻した黒い女が、暗闇に溶けるように消えていく。
千尋はため息とともに、こうつぶやくしかなかった。
「……残念だが、仕方ないか」
あの瞬間、紛れもなく、あの黒い女の奥義が見えるところであったと感じる。
だが、そうはならなかった。それが千尋には残念だった。
さて金色は無事であろうか──そう思い直して背後を振り返る。
すると、さすがに轟音のせいか、金色はすでに目覚めており……
酔いのせいではなく、暗闇でもはっきりわかるぐらいに顔を青白くし、震え……
「……
千尋の知らない、あの黒い襲撃者の名をつぶやいていた。