(これはいったい、どういう状態なのだ?)
千尋は、『店』に男装女優として入ったばかりのことを思い出す。
店──
ここは他の遊郭とは違い『広い空間で複数の客がそれぞれ
また、普通の遊郭だと店の外に格子つきの場所があり、そこで女の子たちに客引きをさせ、客の側は格子の、いわば『生の女の子』を見て指名してから店内に入る。
だが星屑は似顔絵を張り出すのみであり、客側に特に指名がない場合には、店が勝手に男装女優をあてがう。
これによって男装女優たちには最初に接客で客をつかむチャンスがほぼ均等に与えられ、そこで客をつかもうと切磋琢磨することにより接客の質を上げていく──という循環が起こっていた。
その『店が勝手に男装女優をあてがう』という仕組み、新人は多めに出してもらえるらしい。
『この子新人なんですよ』と中堅、あるいはいくつもの指名をとれる上位の男装女優と組み合わせで出してもらい、そこで接客を覚えつつ顔を売り、次につなげるといった機会が与えられるのだ。
千尋もまた、星屑に男装女優として入った新人として、そういった機会を与えられた。
とはいえ千尋、こういう接客が得意ではない。
仕事であればまあ、給金などもらえるのだろうし、何より名を売れば領主屋敷に入る機会も得られるとあって、真剣ではある。
だが、わからないのだ。これまでの人生、誰かに媚びるということをしてこなかった。特に女に気に入られようという努力が想像もつかず……
店主である
最初、口調も固く、他の男装女優のように客を褒めもしない千尋は、ちょっと不審がられた。
だが、ひとたび口を開き、暗めの店内で客が千尋の顔に注目すると、一気に状況が変わる。
最初に千尋を見出したのは、
「アンタ、
「宗
店員に男のフリをさせる都合上、こういった店では男装女優に苗字を作るのが常識なようだ。
この世界において苗字があるのは、血脈的に優れたる者、特殊な功績を天女教に認められた者、それから男のみであるゆえにだ。
千尋は『全然知らん名を呼ばれても咄嗟に反応できん』という、
老婆は、じろじろと千尋を見ている。
なんとも腹の底まで見透かすような視線であった。
(この老婆、出来る)
武的な実力がある、ということではない。
たまにいるのだ。人を見ることに慣れ、長け、それを人生まるごとかけてしてきた、『人目利きの熟達者』とでも言うべき者が。
千尋がこの鷲鼻の老婆から受けた視線はまさしく『人目利きの熟達者』のものである。
大商人か、あるいは武家の
何にせよ、千尋は得心した。
(なるほど、お
千尋は考えた。
媚びる?
美しいですねとか、お若いですねとか、そういうのをやってみるべきか?
……無理であろう。『やりたくない』とか『恥ずかしくてやれない』とかではないのだ。無理なのだ。言葉が思いつかない。なんというか、前歯で作って唇でペッと吐き出したような言葉にしかならず、それにとても『真実』が宿るとは思えないのだ。
そして、真実ならぬおべっかをこの老婆の前で吐くこと、それは『死』であると千尋は感じ取っていた。
人目利きについて千尋はよくわかっていない。だが、真剣勝負を続けてきた人生である。何をすれば
ゆえに千尋、
気合はある。だが、力みはない。
力強い。だが、静かである。
千尋は老婆に見つめられるこの状況を真剣勝負と同じものであると察した。
であるならば、真剣勝負における心構えをし、姿勢を作る。それのみであり、それしかできない。
老婆は、千尋をしばらくじっと見つめたあと……
「ふっ」
やけにそこだけ瑞々しく紅が引かれた唇を吊り上げ、笑って、
「金色、『塔』を用意しな!」
店がざわめく。
塔──その言葉を千尋はまだ習っていない。
これは店主・金色が『千尋はそういうスレた知識がない方が魅力が引き立つ』と思って差配したことであり……
ゆえに千尋、隣の男装女優が「ありがとうございます!」と頭を下げ、周囲からも「ありがとうございます!」と男装女優たちが礼を述べるのを、きょとんとした顔で見るのみであった。
そうしているうちに店の中央あたりに酒を呑む
金色が大きな酒樽を持って出てくると、『塔』の横に用意された台に登り、塔のてっぺんから清酒を注ぎ始める。
清酒は一番上の升をいっぱいにすると二段目に零れ落ち、そこもいっぱいにすると三段目、四段目、とどんどんいっぱいいっぱいになるまで注がれていく。
酒の滝の流れる山、人造の山ゆえに塔、ということであろうか──
(いや、仏の御体なき塔というのは、いかにもこの
あまりに豪勢な酒使いに、思わず見入る。
老婆が声をかけてくる。
「あの『塔』をアンタにあげるよ。アンタ、いい男装女優になる。アタシの目がそう言ってるんだ」
ここは『ありがとうございます!』と返事すべき場面であった。
しかし千尋、ついつぶやいてしまう。
「目利きはありがたいが、あの量の酒はなあ、この体では到底呑めん。できれば全員でいただきたいのだが、かまわんか?」
その発言に老婆がきょとんとし……
「うわっはっはっはっはっは!」
大笑いした。
千尋は知らないことではあるが、この老婆、遊郭領地『紙園』において有名なお大尽様である。
新人が入る情報をどこからともなく聞きつけ、新人の才覚を見る。
この老婆に認められることができれば、その後の躍進が約束されたも同然と評判の人物である。
だが同時に、その客としての楽しみ方は静かであり、若い新人支援を趣味としているだけあって、どこか客観的に男装女優を見るのみ。
大笑いするどころか、ニヤリと笑うことさえ稀。この老婆を楽しそうにさせるのは、現在の領主の現役時代でさえ無理であったと言われる人物でもあった。
それが、大笑い。
この老婆のことを知る『
ひとしきり笑ったあと、老婆は、パァンと己の膝を叩いた。
「気に入ったァ! アンタ、気に入ったよ! おい、聞いたかい!? 今日はアタシの……いや、『宗谷千尋』の奢りだ! じゃんじゃん呑みなぁ!」
周囲から「ありがとうございます!」という声が一斉に響く。
他の客たちの大歓声が起こる。
その中央で千尋……
「……もしや、何かやってしまったのか?」
状況を呑み込めず、一人、きょとんと首をかしげていた。