『
領地の名を関するその
領主かつ支配人たる者の居城であるその場所は五段重ねの朱色の塔であり、てっぺんからは街全体を見下ろすことができた。
この展望こそが支配者の景色。多くの男装女優がここに昇り詰めるために身を粉にして働き、その一握りが店を持つことに成功し、その中からさらにほんのわずかな者だけが、『支配人が投票権を持つ領主選定選挙』で選ばれて領主の座に座ることができる。
この景色を見ることの出来る者は長い時間をこの街に尽くしてきた者であり、この街のすべてに認められてこの場所に立つことができる、この街の申し子である。
結果、自分を育み、自分を押し上げてくれた街には少なからぬ愛着を持つ。よってこの遊郭領地は、現場を経験し、この街を愛する者によって、ますますの発展を遂げていく──というのが、この街がここまで大きくなった流れであった。
では、現領主の
「……ああ、何度見ても忌々しい街! けばけばしい! 気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い!」
甲高い声できゃんきゃんと騒ぐ酒匂、どこからどう見てもかわいらしく、美しい少女である。
桃色と黒の混じった髪色。ふわふわとクセのある、腰まで届く長い髪。
服装は布をたっぷりと使ったふわふわの
目は吊りあがっているがその気の強そうな様子にはたまらないものがあり、小柄で細い体つきもまた多くの者を魅了してきた。
多くの者を。
多くの──
彼女は男装女優の出身である。それは、代々この街で領主に選ばれてきた者は、みなそうだ。
この紙園の領地に従業員として入った者は、まず、『用心棒』か『男装女優』か、どちらかに振り分けられる。
ここで用心棒に振り分けられると、まず出世は見込めない。
もちろん店の質によって待遇は異なるが、基本的にはトラブルの解決のみならず、力仕事、雑用、清掃など、体力や根気が必要な
出世をする者はまず男装女優として店に入り、十三で初仕事をこなし、そのまま女を客として取り続け、男装女優内での
ちなみに明示されてはいないが、この位階上げには時間制限がある。
『この手の店』は大抵そうだが、このウズメ大陸の紙園領地もまた、若い方が客に指名されやすい。
どれほど努力を重ねても三十歳より前には客がつかなくなり、男装女優としての出世は見込めなくなる。『年齢のせいで客がつかなくなる時まで』が、男装女優として出世する時間制限、というわけだ。
この時間制限までに店内で一番か、そこに近い位階にいる者は、店を継ぐ資格を得られる。
領主を目指すのであればそこが
しかし支配人になったとして、第三
どこの店に勤めるか。
どれだけ客に尽くせるか。
支配人になれるか。
支配人になったのち、他の支配人たちの支持を集められるか。
これだけの狭き門を潜り抜けた果てにあるのが、この街の領主──紙園大華の支配人という地位、なのである。
ゆえにこそ、領主・酒匂は、この街を酷く嫌っていた。
「女に媚びて生きていく女なんか、豚も同然よ。豚よ。アハハっ! 豚! 豚! 豚! 豚の街で豚に媚びて豚の女王になる! なんて愉快な街なのかしら! アンタもそう思うでしょ、
赤と桃色の調度品に埋め尽くされた部屋。
異国のテーブルセットについて街を憎々しく見下す酒匂の、すぐ横……
そこに控える、のっぺりと黒い女がいた。
背の高い女だ。
しなやかな肉体をした女だ。
黒い防刃コートをまとい、襟を立てて口元を隠したその女は、男っぽく短く斬り揃えた髪で片目を隠したまま、無表情に「は」と同意を示すような声を発する。
いかにも忠実な腹心、あるいは飼い犬といった風情である。
だが、その女がただのおべんちゃらやお追従でその場所──遊郭領地の支配者の横に侍っているわけではないことは、立ち姿の隙のなさと、帯びた刀を見ればわかるだろう。
その刀、
一見するとコートの腰に巻き付くベルト。
だがよくよく見れば、それは革や布帯ではなく、薄く薄く、薄く引き延ばされ、自在にしなる、鞭のような剣であることがわかる。
刀匠
かの刀匠は異形刀に銘をつけないことで有名。ゆえに、所持者がそれぞれ好き勝手に名をつける。
結果として、異形刀は、所持者の得意技の名をそのまま冠することが多い。
この黒い女──夜籠の所持する異形刀もまた、そういった由来の名を持つ。
『
独特なしなやかすぎる剣が振るわれる時に発せられる甲高い音が、その鳥の声に似ていることから呼ばれ始めた名であり……
『虎鶫の声がしたならば、雷に気を付けろ』と恐れられる剣術を象徴する名であった。
「ねぇ夜籠」
酒匂が『いいこと思いついた』とでも言いたげに笑う。
その声にはかわいらしい笑顔とは裏腹に、弱者をどこまでもなぶるような、意地の悪い響きがあった。
「ねぇ夜籠。ねぇねぇ夜籠? アタシね、この街が嫌いなの。この街の豚どもが嫌い。女に媚びないと生きていけない連中が何より嫌い。消したいの。この街を。アタシの過去をなかったことにしたいの。わかる?」
「……は」
「アッハハハ! わかってくれるんだ? わかってくれるの? だったら、ねぇ、夜籠。アタシはもうちょっと、ここの支配者じゃなくちゃいけないわよねぇ? 次の領主選挙も勝たないと、この街はまだまだ生きちゃうでしょ? そんなの許せないの。わかってくれるのよね?」
「……は」
「じゃあ──
「…………」
「あの
「……」
「ねぇねぇ。ねぇ。ねぇ。ねぇ! あんたを救ってあげたアタシと、あんたを見捨てた幼馴染と、どっちが大事なの? アタシのために殺してくれないの? アタシに恩を返してくれないの? ねぇ、ねぇ!」
「…………」
夜籠は両目を閉じる。
この領主がこのように、思い付きめいた命令を降してくることは本当に多い。
何を考えているのか、わからない。
すべてが思い付きのようでいて計算づく。かと思えば気まぐれでしかなかったり、とにかく『わけのわからない、怖い女』というのが、領主酒匂の評判である。
だが、夜籠は知っている。
(この女が生かしている者も、確かにある)
どうしようもなくこの街の破壊を願っていながら、その治世、苛烈ではあっても絶望的ではない。
とどめを刺す瞬間のための布石を打っているのか、それとも気まぐれなのか、あるいは滅ぼしたがっているような言葉はまるっきり嘘なのか、まったくわからない。
だが……この女に生かされている者の一人として、夜籠は、
「……承りました」
忠実に、命令に従う。
こうして、刺客は放たれる。
神園街領主選定総選挙、波乱の幕が開いた。