旅はまだ始まったばかりだ。
だが、
(……本当に大丈夫なのかよ、こいつ)
里を出発してからほんの数日。
これだけの日数で巻き込まれた──否、『首を突っ込んだ』トラブルの数は両手で数えても足りないほどになっていた。
しかしその中身はと言えば、天性のトラブルメイカー。自分が男だという自覚がないのか、あるいはわざとやっているのか、やれ『一宿一飯の恩義』だの、やれ『袖すり合うも他生の縁』だのと理由をつけて色々なことに首を突っ込んでいく。
十子はまさかの(長年自分の
ほんの数日で互いの立ち位置というか、そういうものが確立してしまった感がある。
早くも『この旅本当に大丈夫か?』感がずっしりと両肩にのしかかってくるのはもう、仕方のないことだろう。
十子は、ふと、出発前に里長とした会話を思い出していた。
それは千尋とともに
◆
天野の里。
十子の構えていた庵はこの里からやや外れた場所であり、里の中心地はそれなりに栄えた場所であった。
鍛冶の里、とはいえ鍛冶をするには鋼が必要で、薪も必要、もちろん水も必要とくれば、色々な物が入用になる。
天野の里には鉱山がなく、鋼は仕入れるに頼るしかない。
その代わり山から流れ込む美しい水が里の自慢であり、それを利用して鍛冶をするのはもちろん、稲作なども行っていた。
ちょうど千尋が来たころには、里は雪解けの季節であった。
乾いたばかりの土に手を入れ、撒くための種もみの数など確認しているころだ。
このころは小作人よりも里長が忙しいのだが、そういう状況の中で十子が訪問を告げれば、里長はすぐに応じてくれた。
里長の住まうのは庄屋の住まうような屋敷であり、門が広く、一階建てで、横に長いなどの特徴がある。
小作人たちの住まうものが木造の小屋であるのに対し、庄屋の家には
入る者に問答無用の緊張を強いる
待たされる部屋は家の奥まった場所にある六畳ほどの場所であった。
家の規模を思えば『狭い』と言えるが、この場所は天野の里の里長が一対一で重要人物と秘密の話をするための場所であり、場の空気が雪解け後の季節とは思えないほどシンと冷え込んでいるように感じられた。
いつ来ても薫る畳の独特な香気の中、出された茶と芋羊羹に手もつけずに正座して待っていると、この屋敷の主が現れる。
下座に座らせた十子の横を通って上座側(部屋の奥側)へと進み、美しい所作で座る老婆こそ、天野の里の里長。
さすがに一線を退いてはいるが、かつては
白髪頭に厳しい目つき。その瞳の色は橙色であり、十子と同じである。
血縁的には確かいとこの叔母の母とかそういうぐらいだったと思うのだが、あまり親戚付き合いに興味がなく、天野の里のような一族衆しかいない里の親戚関係は複雑なので、十子はよく覚えていない。
ただ、幼いころは単純に『ばあさん』と呼んでいた。
仕立てはいいが派手ではない灰色の着物を来た女傑は、袖口から
そうして一服し、紫煙を吐き出してから、「で?」と問いかけてきた。
「ぼさっと茶ァ飲んでんじゃないよ。言いたいことがあるから、さんざん避けてたウチに来たんだろう? さっさと要件言いな。こっちも暇じゃあないんだよ」
厳しいというか、不機嫌そうというか……
昔から変わらないその態度に、十子は思わず笑ってしまった。
「……相変わらずだなぁ、ばあさん」
「そりゃあね、
「……天野の里を出ようと思ってる。だから、あたしの刀を……取り戻した異形刀をあずかっててほしい」
相手が相変わらず『ばあさん』だからこそ、十子は導かれるように要件を言えた。
里長は、紫煙を吐き出す。
「当代『岩斬』が里を出るってぇのは、穏やかな話じゃあないね」
「
「ふむ」
煙が立ち上るだけの時間がしばらく流れる。
その沈黙の中、十子は里長の顔をじっと見た。けれど、十子の四倍は生きている女傑の内心がその皺のある顔からのぞくことはなかった。
カンッ、と卓上にあった皿に、煙管の灰を叩き落とす音が静寂を破る。
「ようやくかい」
女傑は、微笑んだ。
ただしその微笑は、この老婆の性格を知らない者が見れば、なんとも意地悪なものに見えるだろう。
しかし十子は知っているのだ。この、乱暴で業突く張りで底意地の悪いばあさんがこうやって笑う時、それは、芯からの喜びを、あるいは他者への賞賛を含んでいるのだと。
「……『ようやく』ってのは……」
「いつまでもウジウジウジウジ……初めて色恋を覚えた二十年ものの処女かいってぐらい思い悩みやがって。遅いんだよこのぽんこつ娘」
「……相変わらず口が悪ィな」
「お里が出てるもんでね。……いいかい十子。刀鍛冶の多くはね、注文の品を打つだけの人生さ。技の探求だの、誰かのための剣だの、そんなモンを打つ機会はない。普通、めぐり合わないからね」
「……」
「そいつを見つけたんなら、ずいぶんな幸運じゃあないか。……しょうがない娘だよ本当に。若い娘が刀鍛冶にとって最高の幸運を掴もうとしてるんなら、年寄りとしちゃあ、応援してやらないわけにはいかないだろう?」
「……ばあさん」
「で、アンタの思い人はどんな女だい?」
「お、思い人とかじゃねぇよ……あと、その、なんだ…………えっと、女でも、ないです」
「………………」
「色ボケじゃねぇからな!? あいつはな、男だってのに、あのスイを斬ったんだ! 一対一で! 神力だってもちろんねぇ! 刀だって、そのへんにあるのを使った! その条件で、あたしの刀を持ったスイを斬ったんだ!」
「ほぉん」
「嘘じゃねぇって! こんな野郎なら、もしも、ふさわしい刀さえあれば、乖離だって斬れる! ……あたしは……あいつにふさわしい刀を打ちてぇんだよ」
「色ボケだね」
「
「いいや、立派な色ボケだよ。ようするに──引きこもり娘がかわいい男の子と出会って旅をしようってんだろ? こいつが色ボケじゃないなら、なんだって言うんだい」
「だからぁ!」
「いいじゃないか、色ボケ。若いモンしかできないよ、色ボケ」
「いやあ、どうかなぁ!?」
「原動力なんざ、なんだっていいのさ。アンタがやる気になった。そこが大事だ」
「……」
「どうせ色ボケるんなら最後までいっちまいな」
「だからさぁ!」
「十子岩斬!」
唐突に名を呼ばれ、十子は思わず姿勢を正す。
里長は「ふん」と鼻を鳴らし、また煙管を一服。
「アンタと乖離……まぁ、アンタがあの子を乖離と呼ぶなら、あたしもそう呼ぶしかないから、嫌々『乖離』と呼んでやるが」
「……」
「アンタと乖離は、幼馴染だ。幼馴染を人斬りの道に堕としたのが自分だって、ずっと悩んでたんだろう? 自分の処女作が、あの子を魔道に堕としたって、そんな風に」
「……ああ」
「どうせなら乖離を斬るだけじゃあない。迷いごと斬り捨てるような刀を打ちな」
「……ああ。わかったよ。やってやる」
「男の子と二人旅の果てにね」
「だからさぁ!」
十子が腰を浮かす。
里長は愉快そうに喉を鳴らして笑い、
「まあ、男の子で剣客ってのは、ワケありだろう? 秘密にしといてやるから安心おし」
「そりゃあ、ありがてぇけどよぉ!」
「いやしかし、引きこもりのアンタと、男の子の二人旅? ……いやはや、大変なことになるねぇ、これは」
「ならねぇよ!」
などと売り言葉に買い言葉的に否定してしまったが……
実際、旅を始めて数日で、大変なことになっている。
しかも十子が想定していたのとは違う方向で、だ。
十子は里長に吐いた言葉をちょっと後悔していた。
だが……
千尋にふさわしい刀を打つことができれば、乖離も、迷いも、すべて斬り捨てることができるという刀鍛冶の直感だけは、数日経っても、間違いだとは思えない。
だから、旅をしよう。
大変で──
面白い、この旅を、続けよう。