豪風をあげて迫り来る鋼の風車。
大上段──
千尋の流派における大上段は、つま先をほぼ揃え、切っ先をまっすぐ天に向け、自身を一本の棒のごとくする構えである。
地面を抉りながら加速する鋼の風車に対峙するにはあまりにも頼りない構えであった。刃に触れるどころか、剣風で吹き飛ばされそうなほど薄っぺらく見える。
だが剣を持ち上げるまではやや震えていた千尋の体がピタリと止まっている。
すべての体重を足裏に乗せる身体操術。
立っている人間の体重が足裏にかかるなど当たり前ではないか──というのは武を知らぬ者の戯言。人は己の重量を足に乗せることができていない。どこかで体に無駄な力が入り、澱んでしまう。
それを身体の操作できっちりと足裏に重量を落とすことにより安定させ、重心を下げる。
武においては『
傲然と唸る風車がいよいよその切っ先を千尋の脳天へと迫らせる。
すでに『咄嗟の回避』などできようもない速度。千尋が慌てて飛び退くよりはるかに速い前進でもって間合いを詰めたスイは、その切っ先を千尋へ振り下ろした。
(乱暴な技に見えてなんと繊細な……)
千尋はその刃筋が立っていることに感嘆する。スイもまぎれもなく
千尋は、刃が迫る前にあらかじめ動いている。
剣を持ち上げる構えをとったならば、あとは振り下ろすのみ。
だがただ振り下ろすだけではない。
剣術には互いに面の打ち合いになった際に、刃の横腹……
剛速で迫り来る巨大刀の鎬が自分の脳天に迫る中、鎬をこすらせ軌道を逸らす。
並みの技量・度胸でできることではなかった。
この二つの刀がもしも尋常に噛み合えば、千尋の側が力負けし、そのまま真っ二つになる。
軌道、タイミング、力加減、何も誤れない。誤れば、死。
(懐かしい感覚だ)
殺し合いは数多、経験した。
だが、それが本当に殺し合いであったことは──同じ卓に、自分と相手の命がきちんと乗っており、一瞬の油断、一手の失敗で己の命が卓から消え失せるというものであった期間は、短かった。
(前の人生で十四歳のころか? 本気で打ちかかってくる師匠を相手にした時が最後か。……このざわめき。金玉が縮み上がり、腹の底が冷える。手指から力が抜けそうになる。頭の後ろが冷たい。ああ、これが、『死』だ。そして……)
事前に決めた通りに体が動いて行く。
スイの刃は予想した軌道を振り下ろされ、チッというかすかな音とともに、千尋の刃がその鎬に擦れる。
(……『死』をもたらす者、それこそが『敵』だ!)
『死』が、体のすぐ左横を滑っていく。
スイの刃が逸らされた。
腕力ではありえない。『このように擦れば、このように逸れる』という法則に基づいた結果。反射、関節、速度、姿勢、重心、呼吸。すべてを高い次元で理解し、実戦に活かすまで体得したゆえに可能だった一閃。
真横をすべる刃の音を聞きながら、千尋の刀がスイの脳天にぶつかる。
ガキィン! という音がした。
次の瞬間──
スイの頭骨にぶつかって弾かれた剣が、千尋の手からすっぽ抜けて、宙を舞っていた。
「はは、やはりか!」
叫びながら真横に転がるように動く。
あらかじめ決めていた回避動作。動きはあらかじめ決めておかなければ、今のスイに対応できない。
(わかっていた……わかっていた! だが、こうまで予想した通りになると、『ちくしょうめ!』と理不尽を叫びたくもなる!)
神力で肉体を強化した女に、男の振る刃は通じない。
うなりを上げて回転しながら通り過ぎていく風車。その羽根はもちろん鋼だが、その軸たるスイの肉体さえも、神力により鋼の硬度を得ていた。
到底、男には斬れない。
これが、『女を斬る』ということ。
『男の身で、女に挑む』ということ。
生物としてまったく違う。
前世、千尋も幼いころ、師匠などが自分と違う生き物に思えたことがあった。
実際、年端もいかぬ子供と大人とでは、ほとんど別種の生物と言ってしまえるほど、肉体性能も、動きも、まったく違う。
この世界の男と女は、子供と大人でたとえてもまだ足りないほど違う。
(人と熊か? いや、熊程度ならば斬ったことはある! 妖魔鬼神、変幻自在にして鋼でできた
速度が上がったゆえに旋回性能が落ちたスイが、回転を上げながら千尋の方へと戻ってくる。
刀の丘を掘り進むような進撃。鍛冶師十子の習作が抉られ、弾き飛ばされ、粉々にされながら礫のように散っていく。
一瞬後に迫る死。
千尋は飛ばされた刀の代わりに、また違う刀を拾った。
「ああ、参ったな。これは、斬れん」
浮かぶ表情は笑みだった。
どうしようもなく諦念のにじむ、理不尽を前に笑うしかなくなってしまった者の、笑みだった。
だが……
「すまんな、スイ。勝ちにいこうかと思ったが、できぬ。ゆえに」
千尋は拾った刀を自分の正面に突き刺して……
「殺すしかなさそうだ」
わずかな悲しみのにじんだ声で、告げた。