相手……
(背丈おおよそ
船乗りなどは昼夜で使う目を分けるなどのことをする場合がある。
同様に、暗殺稼業など『夜の仕事』を行う者も、『明るい場所』と『暗い場所』で使う目を分ける習慣があり、暗さに常に目を慣れさせておくために眼帯をしているなどといったこともある。
あの女、どう見ても『表』の稼業には見えないほど濃厚に血が薫る。ゆえに、眼帯をしているからといって左が死角だと決めつけるのは危険。
(左肩に
繊細で美しい刃物だ。刀掛けにあれば芸術品と思うかもしれない。
しかし刃の曇りが、あれが芸術品であることを強烈に否定している。
あの曇り方は、ある一定数の殺人を行った刀が、いくら磨いても拭っても血と脂の曇りがこびりついてとれなくなったというもの。歴戦の人斬りとその手で人を斬り続けた歴史が垣間見える。
(構え、自然体──というより、『戦いになるとさえ思っていない』。左肩には弟を担いだまま、右手は切っ先を上げる気さえない。眼球の動きも緩慢。明らかに油断している)
子供、それも男を相手にする者としては当たり前なのだろう。
何せ千尋が振るう木の枝は、女の子にさえ痛手を与えられない。
(服は……上半身、裸の上に毛皮。下半身は腰骨の下あたりから袴。金属・革・木材の鎧さえもない。よくよく見るとなんという格好だ……)
千尋は知らないことではあるが、この世界は神力や肉体が強い者ほどその体を誇示するような露出度の高い服装となる。
いわゆる『美学』の問題であり、ようするに『そこまで自分の体や神力量・質に自信があるのは恰好いい』といった価値観に基づくものであった。
(ともかく、肌が出ているからといってそこを引っ掻けば血が出るというわけでもなかろう。ふぅむ、つまりだ。大鎧を纏った武者を相手取ると考えるべきか。重量のない、視界を阻害しない、大鎧をだ)
すなわち、
(相手にとって不足なし!)
千尋の思考完了とほぼ同時、木の枝の間合いに接近することに成功した。
というよりも、相手に妨害する気が一切なかった。
相手は長刀持ち。しかも千尋より
(『男の振るう木の枝ごとき、問題にもならぬ』といったところか? ああ、知っているとも。俺の木の枝は、同年代の女子にさえ通らぬ。脆弱非力の男の身の、虫も殺せぬ抵抗よ。だが……)
だが。
いかに神力が肌や肉や骨を強化していようとも……
(人体には鍛えようのない急所がいくつもある!)
千尋は木の枝を握ったまま、跳び上がる。
ほぼ同時、油断しきった相手の喉へと突きを放った。
真正面から喉を狙った突きというのは、実戦ではまず入らない。
顔周辺はどのような人間でも無意識に防御しようと体が動くからだ。
また、真剣なら、顎を引かれれば顎ごと突き刺すし、横に避けられれば頸動脈を切っ先で引っかけることもできる。しかし、木の枝であれば、喉の喉笛の柔らかいところをピンポイント、かつ全体重を乗せて突かなければ、きっと男の攻撃は女に通らないだろう。
だから、相手が油断しきったところを攻める初撃でしか、この手は使えない。
果たして、相手の女は一瞬、驚いたように眉をピクリと動かした。
反応はそれだけだ。『接近時には速度をやや遅める』という
突き刺さった、が。
「見事だ」
「……く、くくく……」
なんの乱れもない声で『見事』と言われ、笑ってしまう。
女の喉を突いた感触──
(まるで兜でも突いてしまったが如き感触。おおよそ肉、しかも鍛えようのない喉の感触ではないぞ……!)
女と男。
強者と弱者。
村の同年代の少女たちとの喧嘩でも感じさせられたが、この世界の女は、生き物として、男とはまったく違う。
急所が急所になっていない。
子供の速度と重量とはいえ、千尋の技量で力を乗せきった突きを喉に喰らって、声になんの乱れもないとは。
しかも、突いた枝をそっと握られていた。
大して力を込めてもいないのだろう。だというのに、女に握られた木の枝をまったく引きはがせない。
「その気概、女のようだ。男とは思えぬほど
「勝ち誇るのは早いのではないか?」
「ふむ」
女は……
握りこんでいた枝を離す。
千尋がすぐさま距離をとる中、女は長刀をゆっくりと動かし、突き出すような構えに移行しながら、口を開く。
「我が
「……」
「が、お前にとっては、育った村を焼いた
相変わらず、殺意はなかった。
左肩には
だが、ただ剣を突き出すような構えをとったというだけで、間合いが何倍も深くなり、相手が何倍も大きくなったように錯覚する。
手練れ特有の、気の圧力。
千尋はぶるりと震えた。
恐怖ではなかった。
女──乖離の目が千尋の股間あたりに向き、「……この状況でか」と驚きの声を発する。
千尋は、この絶体絶命、どうしようもない理不尽な上位種族『女』に真剣を向けられた状況で……
「我が名、宗田千尋。──貴様は、俺の『敵』だ」
興奮していた。
呼吸を止める。
その身を剣そのものにする。
踏み込む。
「……何?」
乖離の驚きは、千尋の速度が先ほどの倍ほどになっていたからだ。
神力が使えない男。筋力も骨格も優れたところのない、生まれついての弱者。女への奉仕種族でしかない、『男』。
それが一瞬とはいえ乖離の視界から消えるほどの速度を出す──
乖離は感嘆の息をついた。
(なんという、身体操作の冴え!)
乖離から見て、目の前の少年は紛れもない弱者だった。
筋力がいきなり増したわけではない。危機に瀕して急に『男なのに神力に目覚めた』などということでも、ない。
身体操作。
体重移動。骨を揃えることによる重心の安定。踵を使った押し出しによる急加速に、限界以上の脱力と緊張を利用しての爆発的な速度。
その技術は乖離をして感嘆せしめる熟達の身体操術。人は、殺意だけでここまで我が身を自在に動かすことが可能なのだという、一つの技術の粋──
真っ直ぐ迫ってくると思われた少年はしかし、その身体操術を用いてぐにゃりと曲がり、急加速・急停止を繰り返し、乖離の剣に狙いを絞らせない。
間合いに入ろうとしてくる相手を前に切っ先が迷うなどと、乖離には数年間なかったことだった。
ついに、間合いの内側に侵入される。
枝が伸びあがって顔へと迫る。
狙いは目。喉狙いの初撃といい、眼球狙いのこの一撃といい、本当に容赦がない。
村で蝶よ花よと育てられた男の子の肚の据わり方ではなかった。普通の人間は、人間のいかにも脆そうなところを思い切り叩く時、恐れを抱いて鈍るはずなのだ。それがまったくない。普段から人の急所を打ち据え慣れているのか、他者の痛みや被害にまったく共感できないように己を完成させた剣客の魂でも持っているのか。
だが、目を狙った突きは明らかに陽動。
乖離は切っ先に目を奪われず、その持ち手を観察していた。
ゆえに気付けた。目を狙って突き出されたその瞬間、木の枝はすでに放され、本命の打撃が迫っている。
少年の非力な拳が迫る先は腹部。
位置は──
(『膀胱打ち』!? 村育ちの少年が知っていていい打撃ではないぞ!?)
武術には人体急所にかんする知識がいくつも含まれている。
そのうち一つに膀胱があった。
これは即時に相手の動きを止める効果があり、長期的にもじわじわと効いて来る。
もっとも、知識がなければ膀胱の位置などわかりようもなく、内臓であるそこに衝撃を通すにはただ殴ればいいというわけではない、が……
少年にはどうにも、知識も技術もあるらしい。
少年の拳が突き刺さる。
予想通りの衝撃が乖離を襲った。
予想通り、きちんと中に衝撃を
しかし、あまりにも、非力。
神力で強化された女に痛手を与えるには、まるで足りない力。
瞬間、乖離は気付かされる。
ここまで、陽動。
本命は……
「そこ、か!」
乖離が右足を振り上げる。
そのつま先が──
乖離の股の間をくぐって背後に回り込もうとしていた少年に、ぶち当たった。
少年が体を折り曲げるような姿勢になって飛んでいく。
「……しまった」
全力ではなかったが、つい、それなりの力がこもってしまった。
乖離の使命はあくまでも『男の保護』である。傷つけるのも、殺すのも本意ではない。
それでも、力がこもってしまった。
おそらくあの少年はどうあがいても乖離に勝つことはなかったが……
(股をくぐって何をしようとしていた?)
急所の知識を持ち、衝撃の透し方を体得し、目や喉を狙うことを躊躇わない者が、後ろに回り込む、あるいは下に入り込んで何をしようとしていたのか……
その『えげつなさ』……真の武そのものとも言える『勝つためならなんでもする』精神性に、乖離は思わず背筋を震わせた。
「ごほっ、ごほ、ごほっ! ああ、くそ、負け、か……!」
少年が地面に倒れ伏したまま咳き込む。
村を襲った相手への報復をしようとし、えげつない戦い方をしていたわりに、なんとも爽やかでさっぱりした態度である。
裸の体で大の字に寝転がり、『どうとでもしろ』というようなその様子……
乖離は、つい。
「……いや」
自分でも予想していなかったことを、つぶやき始める。
ここから始まる言葉こそが。
……自分と、少年と、この世界の命運を変えるきっかけになることを、まだ、誰も知らない。