「おめでとうございます。あなたは、多くの人に慕われ、大往生なさいました」
耳に染み入るような、女の声だった。
彼は、目を閉じたまま記憶を探り、現状についての推測を口にする。
「そうか、私は死んだのか」
「ええ。見事に天寿をまっとうし、亡くなられました。多くの弟子と家族に惜しまれながらの指導者として最高の最期だったでしょう」
「そうか。
「あなたの人生には成功のみがありました。
「……ああ、
「妻を持ち、子も剣才に恵まれ、立派にあなたの道場を継ぎ……今や孫さえも、
「うむ、うむ、そうさなァ」
彼は
いくつもの道場。
分派まで含めれば弟子は一万人以上に及ぶだろう。
当人とて生涯負けなし。あらゆる殺し合いに勝利し、いつしかその場に立つだけで相手がひれ伏すほどの『威』を身に着けるに至った。
剣の術理もきっと、天上天下に比肩するものなどないのだろう。
彼は込み上げる笑いのまま、声を発する。
「……『いい人生だった』か」
「ええ。紛れもなく」
「………………数多の弟子に惜しまれ、家族に惜しまれ、目の前に立つだけで相手は戦意喪失し『敵』たらなくなり、やれ『最強』だ。やれ『無敵』だ。あげくの果てには『剣神』だ? ははは……死んで仏になる剣客は数多見たが、生きて神になった剣客は俺ぐらいであろうなァ。いやはや、なるほど確かに『いい人生だった』」
彼は笑う。
笑う。
肩を揺らし、頭を振って、声まで立てて笑い……
カッと目を見開いた。
「ふざけるなァ!!!」
見開いた目に映るのは、真っ白い空間だった。
天も地もすべてが
そこに立っているのが、一人の女。
表現しようもないほど美しい顔立ちをして、たまらないほど優美な体つきをした女だった。
真っ黒い髪。着ているものはえらく薄い布切れのみで、その向こうに輝かんばかりの真っ白い肌が透けて見えた。
彼の世界にあった
たいていの男ならば見惚れて、一瞬、我を奪われるだろう。
しかし、彼は、昔から女になど興味がなかった。
彼が興味を持っていた唯一のもの、それは……
「生きて神になり寿命で大往生!? 誰がそんな人生を望んだ!? 俺は! 斬り合いの末に死にたかった! 死ぬような恐れを抱ける相手との殺し合いを所望し続けた! だというのに、願いは叶わなかった! 誰も! 誰一人! この俺に『恐れ』を抱かせる
……斬り合い。
殺し合いに、心奪われていた。昔から、死んでも、ずっと。
それが満たされなかった人生の何が『いい人生』かと彼は激昂する。
天女はにっこりと笑い、黙ったままその話を聞いている。
「『敵』と出会うことのなかった人生の、何が『いい人生』かァッ! 妻という弱みを得た! 子という弱みを得た! 門弟、道場、流派、一切合切すべて弱み! だというのに、老いという弱みを得てなお、この俺の『敵』として名乗りを挙げる者など一人もおらぬ! 強く育てた子も! 孫も! この俺を殺してやろうとは望まなかった! ……敵に巡り合えぬ上、自ら敵を作り上げることさえ失敗した、この人生は…………」
激していた彼は、項垂れる。
そして、かすれた、しわがれた声でつぶやいた。
「……不幸そのものであっただろうが」
声の末尾には、自嘲の笑いがかぶさる。
天女は彼の話を最後まで聞き終えてから……
ぺろりと瑞々しい唇を舌で舐めて、応じる。
「素晴らしい」
黄金の瞳が
天女は、殺し合いを切望する彼に、明らかに発情していた。
「男性は、そうでなければなりません。人並みの幸福。ありきたりな幸せ。安定。……そのようなものを求めてはならない。永遠に挑戦し、永遠に渇望し……永遠に強くなる。そういう生命体であるべきなのです」
「貴様は、なんだ?」
「わたくしは……ふふ。ええ、『天女』でよろしいでしょう。ちょうど、その呼び名が多く使われる存在ですゆえ」
「貴様は、『敵』か?」
「わたくしは、あなたの目の前に立つ者ではなく、あなたの後ろを三歩下がってついていく者。あなたに屈服させられ、支配されたいと望む者」
「貴様は、なぜ俺と対話する?」
「あなたの願いを、叶えたいのです」
「死した俺に、それが適うのか?」
「叶えるのが、わたくしという存在ゆえに」
彼は「ふぅむ」と考え込むように唸ってから、口の端を吊り上げて笑う。
「引き受けよう。そこに『敵』がいるならば」
「ええ、『敵』はおりますとも」
「ほう」
彼は身を乗り出す。
天女も口の端を吊り上げて、彼に身を寄せた。
「あなたに生まれ変わっていただきたい世界は、女性が多く、女性が力を持っております。対して、男性は少数かつ、女性より弱い」
「ふむ。それで?」
「あなたはその世界で男性として生まれて、暮らしていただきたいのです」
「弱者として生まれ、弱者として生きろと」
「『最強』とは『敵無し』。敵が自ずからいなくなってしまう者。……あなたも御存じだった様子ですが、『敵』を得るには『弱さ』が必要。晩年、『敵』を求めたあなたが最も欲したものこそが『弱さ』だった──そうですね?」
「………………」
彼はニタァと笑った。
天女も応じるように笑みを深める。
「あなたに最高の弱さを与えましょう。誰もがあなたに斬りかかることを迷わない、最高の弱さを」
彼はぱぁんと膝を叩いた。
「その話、乗ったァ!」
「最弱にして最強なる者よ。良き生涯を。わたくしはいつでも、あなたの後ろを三歩下がってついて参りますゆえ」
かくして──
最強の剣神は、最弱に生まれ変わる。
女が多く、女が力を持ち、男は搾取されるだけという世界に、今……
剣神の魂を宿した、美しい男が、生まれた。