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第1話

「愛の、巣……?」


 手足が震えそうになるのを抑えながら、精一杯の虚勢を張って楠葉はなんとか言葉を紡いだ。

 冷たく黒い床。

 目の前には黒い格子。

 視線を少し巡らせば、大体正方形2mほどの部屋……いや、箱というべき場所だということが瞬時で分かるほどの狭い空間には、隅の方に藁の塊としか思えない簡素な寝床が一つ、そして、その対角線上に人1人がギリギリ入れそうな謎の黒穴があった。


「ああ、それはトイレだよ。人である間はトイレをするのだろう?」


 その言い方は、まるで楠葉がいつか人ではなくなると確信しているような言い方で、全身にぞわりと冷たさと恐ろしさが駆け巡るのを感じた楠葉は思わず男の方を見た。紫の瞳とバチリと視線が合い、楠葉は駆け巡る恐怖に震える手足を抑えることが出来なかった。


「ああ、クスコ。やっと会えた。ああ、間違いなく君だ。私を愛すべき君だ。ずっとずっと探していたんだ。この日をどれだけ待ち望んでいたか。私はこんなにも愛しているのにどうして今まで隠れていたんだ?まぁそんなことはどうでもいい。こうして見つけることが出来たのだからな。諦めずに探し続けた甲斐があったというものだよ」


 黒い格子を両手で掴み、恍惚とした表情で楠葉を見つめながら言う男の言葉は先ほどまでは片言だったが、今は人間らしいそれであった。だが、口調といい話し方といい狂気を常に纏っている人型の何か、とも言えた。そして、髪も纏う服も全てが黒色で瞳だけが紫の彼は、本当に人であれば美男子というべきなのであろうが、美しさが余計に楠葉の恐怖を駆り立てた。

 そんな中、楠葉の頭に何度も浮かぶのは優しい笑みを浮かべ楠葉を抱き寄せる貫の姿だった。


(ああそうだ……貫!)


 楠葉は慌てて自分の手を見た。

 そして、息を飲む。


「こんな、こと……」

「ああ、やっぱりそれは厄介だな。手を握り潰してもまだあるってことはあっちの命が消えてないということか。ああ、本当に面倒だ。お前を殺すわけにはいかぬし、どうしたものか」


 怒気を纏い言葉を紡ぐ男に楠葉はビクリと肩を震わせたものの、その物言いから貫が生きているという事実が確認できたことに少し安堵した。


(生きてる、生きてるんだ……)


 それが現実だと信じることが出来ると、楠葉は自分の思考が少し落ち着いていくのを感じた。


(でも、安心しちゃダメ。こんなの見たことないんだから)


 楠葉は金色の糸が結ばれている自分の手をぎゅっと握りしめる。

 糸はある。

 指輪もある。

 けれど、金色の糸は何処にも伸びておらず、ただ楠葉の小指に巻き付いているだけだった。

 まるで、相手がどこにいるかわからない状態になっているような、無理やり千切られ繋げることが出来ないような、そんな強力な力の動きを感じる状態が金色の糸に痕跡として残っていた。

 そしてこのイレギュラーを実現させたのは間違いなく、目の前にいる男なのだろう。


「なんだい、クスコ?」


 そう言って、嬉しそうに首を傾ける男の笑顔は無邪気だが、目が笑っているようにはどうしても見えなくて背筋が凍るのを楠葉は止められなかった。それでも、楠葉に対してすぐに何か危害を加える気はなさそうなことから、どうやら対話はできそうだと判断した楠葉は震える唇を開いた。


「私は、楠子様ではありません」


 その言葉に、男の眉間に皺が寄り、周りに黒い糸が束になってうねる。

 まるで男の背から無数に生えた尻尾のようにうねる黒い糸たちに楠葉は言葉を間違えたと気づくが、一度出た言葉を戻せることなど出来ない。


「私は、楠葉です。お間違えになったのだと思います」


 急いで自分の名を明かすが、果たしてこの選択があっているのかという自信は楠葉にはなかった。

 だが、男の黒い糸の束がゆっくりと縮小し、眉間の皺もいくらか和らいだことからどうやら言葉の選択は間違いではなかったらしいことにひとまず楠葉は一つの危機を乗り越えたことに安堵し、生唾を飲みながら次の言葉を待った。

 男は顎をさすりうつむき、何やら考え込むような素振りを見せた。

 しかしそれは数秒で、すぐに紫の瞳で楠葉を見る。

 刹那、楠葉の右頬に風が走った。

 遅れて、チリっとした痛みが走る。


「え……」


 何が起こったかわからなかった楠葉は、極力身体を動かさないよう視線だけを右頬側に向けた。

 そこには、黒く長い爪が伸びていて、楠葉の頬から垂れた血を優しく掬いあげながら引いていった。

 その動きと、鉄の匂いから、自分の頬が裂かれたのだと楠葉は察した。


「ふむ」


 男は中指から伸びた長い爪に付着した血を舐め「ああ、やはり間違いないな」と呟くと爪を通常の人の長さへと戻した。


「お前には間違いなく妖怪の血が混ざっている。だからクスコで間違いない」

「妖怪の、血?」


 私に?

 妖怪の血が?


 混乱し、男の言葉を飲み込めない楠葉に対し、男は何やら納得したように自身の顎を撫でていた。


「ああ、そうか、そういうことか。人間は寿命が短いのであったな。ならばそなたはクスコの子孫か。なるほど、合点がいった。一度クスコは死んでいたから私は気配を気取れなかった。しかしその血が受け継がれていき、一番強くクスコの血を引いた者がお前だというわけか。見た目があまりにもそっくりだから流石の私も気づかないほどだったというところか。なるほど、なるほど、なら仕方がないな」


 1人で長く言葉を連ねた男は再び紫の瞳を楠葉に向けると、今までで一番穏やかな笑みを浮かべた。


「ということはだ。これは好都合。本人でないのなら、お前を私の理想の嫁として作り上げることが一から可能だということだ。そうすれば、私はこの世の妖怪全てを牛耳る力を手に入れることが出来る。さぁ、そのためには自己紹介が必要であったな。互いの名を知ることが夫婦になることに必要なものだと私は心得ている。確か楠葉と名乗っていたな。私はそうだな、苦埜くのと呼んでくれればいい。私もお前のことは楠葉と呼ぼう。さぁ、苦埜と呼んでくれ」


 理想の嫁

 作る

 妖怪を牛耳る

 夫婦


 色んな情報が一気に耳に入り込んできて楠葉は自分の中ですぐに飲み込むことが到底できなかった。

 けれども、苦埜と名乗った男が望んだことをしないと今の自分が迎えるものは死よりも恐ろしいと感じるこの直感は信じるべきだと感じた楠葉は、震えながらも、告げた。


「苦埜、さま」


 この判断は楠葉にとってありがたいことに正解だったようで、苦埜は満足げに笑った。

 目も口も、異様なほどに弧を描いており非常に不気味な笑みであったが、怯えの表情を出してはいけないと楠葉は下唇を血がにじむほど噛むことで怯えや恐怖を表情に出さないよう必死に堪えた。


「うんうん、私は忠実な女が大好きなのだ。なんせ私のものになるのだから。すぐに私の名を呼んでくれた褒美にこの場所の持ち主、クスコのことをお前に教えてやろう。どうやらお前は、クスコを敬っているのだろう?いや、愛しているのか?もしくは家族といったものか?まぁ人間の感情とやらは複雑すぎて私にはよくわからないが、クスコに関して知りたい気持ちはあるのだろう?私にはわかるぞ。なんせ、クスコに私と同じく”様”をつけるほどなのだから」


 苦埜の提案に、楠葉は心が揺らいだ。

 今まで誰も知らなかった、伝説の巫女のことがまさか恐怖の塊でしかない妖怪から聞けるチャンスが来るとは思わなかったものの、知りたいという欲求は抑えられるものではなかった。

 どうして自分が攫われ、閉じ込められ、夫婦と言われるのか。

 何故金色の糸が貫の居場所を示す方向にのびていないのか。

 その謎の糸口も見つかるかもしれない、という一縷の望みもかけて楠葉は頷いた。


「知りたい、です」

「ああ、なんてお利口なんだ。とても忠実で心地よく良い返事だ。では、遠慮なく見ろ。私の従順な妻になるために」


 苦埜の言葉が終わるや否や、苦埜の手が伸び楠葉の頭を鷲づかんだ。

 めり、とこめかみに指がめり込む音に悲鳴を上げそうになるが、楠葉の視界は瞬時に暗闇に落とされる。


(何が、起きて――)


 気づけば楠葉は、何もない暗闇の中に放り出されていて、ひたすら落下を続けていた。

 痛みも、寒さも、何も感じない暗闇に。


「これがクスコの過去だ。しっかりと、堪能するがいい」


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