ニタニタと笑いながら紫色の人型が指したのは、楠葉だった。
何が起こっているのかわからず「え?え?」と扉に背中をぴったりつけながら動揺する楠葉は、直感で目の前のこいつは危険だと脳内で警報が鳴るのを肌で感じ取っていた。
貫の方を見ると、貫は目を大きく見開き「まさかてめぇは……!」と言うと同時に、突然妖怪化し始めた。
「お前は!お前は!!」
茶色い髪は燃え上がる炎のように立ち上がり、そこから狸の耳が毛を逆立たせ、背後では狸の尻尾がピンと立つ。そして、今まで黒かった瞳は怒りに満ちて赤く光り、食いしばった歯からは八重歯の部分が牙となって伸び、肌色だった皮膚は全て耳や尻尾と同じような茶色い毛を纏い、威嚇するように逆立ち、両手には薄紫色の10㎝ほどの長く鋭い爪がギラリと光った。
いつしか妖怪化したときよりも鋭く冷たい殺気を放つ貫に、楠葉は「ちょっと、どうしたのよ貫」と声をかけるが、その声は恐怖で震えているせいか貫には届いていない様子だった。
紫色の人型は、貫の吠え声にそちらを一瞥した。
「ああ、聞き覚えのある憎たらしい声がヨクキコエルと思ったらお前か」
先ほどまで片言だった声は、急に流暢な言葉で話し始めた。
その間に、門の外から黒い糸が侵入し、どんどん人型の周りに集まり、囲み、徐々にその姿を変えていく。
「人のスガタになるのは久しぶりだ。コトバもまだうまくいかぬな」
言いながら、その人型は自分の両手に視線を落とす。
その容姿は、かなり人間に近いものへと変化していた。
背中まで流れ落ちるような長い黒羽色の黒髪。
黒いスーツに黒いシャツを纏い、黒い靴で完全に黒い服に覆われた状態から僅かに覗く肌は色黒。
黒、という色に染まり切ったような男は、唯一色の違う濃い紫に光った瞳を楠葉に向けた。
「妻を迎えるには、こういうスガタがいいと知った。そうだろう?」
ところどころ雑音の入る男の声に、楠葉は全身に寒気が走るのを感じていた。
顔は整っており、貫とは違い謎めいた雰囲気のある美麗さがあるが、それを美しいと楠葉は思えなかった。
ただただ不気味で、触れたくない、近付きたくない、逃げたい、という気持ちに駆られていた。
「わ、私は、もう人妻です」
何とか絞り出せた言葉はそれだけだった。
それ以上言葉を発すると、呼吸が止まりそうなほど空気が重く、身動きも取れないほど楠葉は震えていた。
「ナニ?」
途端に男の背後にうぞっと黒い糸が束となり、蛇のように蠢いた。
明らかに怒気を纏っており、楠葉は肩をびくつかせた。
「ああ、またそれか。鬱陶しいイトめ」
男は楠葉の指に視線を落とした。
楠葉は同じように視線を落とし、金色の糸と、指輪を見る。
(まさか、こいつ糸が見えてる?)
ゴトッ
聞きなれぬ音に、楠葉は顔を上げた。
そして、後悔する。
楠葉は、膝から崩れ落ちて座り込んだ。
その衝撃で、チリとララが楠葉の胸元から落ちたことも気づかないほどに。
楠葉は目の前の光景を飲み込めなくて、信じたくなくて。
息も、心臓も、全てが止まった世界に取り残されたような気持ちに覆われていた。
「ぬ、き?」
聞きなれない音の正体は。
黒い男によって切り裂かれ、落ちた貫の首の音。
首を無くした貫の身体は仰向けに倒れ、ぴくりとも動かない。
その両手首を男は斬り落とした。
金色の糸で結ばれた貫の手が、貫の身体から離れた。
「ふむ、これでいいだろう」
男は、汚物を見るような眼で貫の身体を見下ろすと、金色の糸が伸びている方の手首を踏みつぶした。
男の右手は、鋭い刀のようになっており、まるで凶器人間と化していた。
いつそんな姿になったのかわからぬまま、男の腕は刀から人間と同じ腕と変わっていく。
目まぐるしく変わっていく景色に、状況に、楠葉は混乱で眩暈を起こしていた。
(なにが、おきてるの?)
楠葉は気づけば肩で荒い息を繰り返していた。
目の前の現実が受け入れられず、ただただ混乱が脳内で渦巻く。
(貫、あなたは不死身なのよね?なら、生きているのよね?)
転がった貫の首は楠葉に後頭部しか見せない。
だから、瞳の光が見えない。
瞳の光を見たい。
そう思い楠葉は近づこうと手を伸ばし、自分の手の変化に気づく。
小指に結ばれた金色の糸。
いつだって、貫の傍に続いていた糸。
その糸が、途中で途切れているのだ。
「うそ――」
「さぁおいで、私の妻よ」
理解が追い付いていないのに、黒い男は容赦がない。
気づけば楠葉の目の前に居て、にこやかに微笑んで、楠葉に覆いかぶさる。
「いや……!」
叫んで、防ごうと手を上げるが、視界が紫で覆われる方が早かった。
手足が動かない。
声も出せない。
息苦しい。
(貫……!)
楠葉が心の中で叫んで、次に気づいた時には。
楠葉は、黒い格子に覆われた冷たい床に座り込んでいた。
「ここ、は」
「私と君の愛の巣だよ、クスコ」
そう言って、黒い男が格子の向こうでにっこりと嬉しそうに笑っていた。