「紫の毛玉?」
チリの言葉に、楠葉は首を傾げる。
「巫女、見えないなの?」
チリが不安そうに返し、ぴょんっと胸元から飛び出ると楠葉の掌にいるララの隣に立った。チリのために横にずれたララも、「なの?」と不安そうに見上げてきていた。
それに対し、楠葉は「えーっと」と、言葉を濁し、ちらりと兎妖怪を見てからチリとララへ視線を向けた。
「毛玉と言うか、紫の首輪が見えるんだけど、首輪は見える?」
「は?オレにはなんも見えねぇんだが、何言ってんだ?」
楠葉の言葉に素っ頓狂な声を上げて返答したのは貫だった。
「そもそも、私ね。首輪が見えたから、どこかの家が飼っている兎が脱走して間違ってウチの敷地に入っちゃったのかなって思ったのよね、最初」
楠葉が正直に告げると、チリの顔が強張った。
「巫女。今すぐ刀で切るなの。その首輪切るなの」
切羽詰まったような声に楠葉は頭に疑問符を浮かべるも、チリが間違ったことを言ったことはこれまでなかった。真相はわからないが、チリの表情から緊急を要すると察した楠葉は「わかった」と即答し、チリとララを胸元裏にあるポケット型の袋に入れると、大事にしまっていた小刀を腰から取り出した。
「あ?なんだ、殺すのか?こいつ」
貫が兎を足でぐりぐりしながら言うと、チリが楠葉の胸元から顔を出し珍しく声を張り上げた。
「狸!足をどけるなの!巫女が小刀で首輪を切らないとなの!でないと百足みたいに死ぬなの!」
百足
その言葉に、貫と楠葉は同時に顔を強張らせた。
「理解した。楠葉、首輪って事は首の部分だな?俺が抑えておくから一気に断ち切れ!」
貫は口にするとともに、サッカーボールをリフティングするようにつま先で兎妖怪を手元まで蹴り上げると、耳と足を鷲掴みにしてぴんっと伸ばし、楠葉の方へ向けた。傍から見れば兎を縦へ乱暴に引っ張る酷い男にしか見えないが、楠葉も百足の話を出されれば迷っている時間すら勿体ないと察し、小刀の鞘を素早く抜いた。
刹那、白い光を帯びる銀の刃。
「慣れてないから傷つけるかもしれないけど、そこは勘弁してね!」
叫びながら楠葉は刃先を上に向け、兎の首の下に切っ先を向け、下から上へ振るった。
刃が重たい何かに当たる抵抗感に、力を込めて思いっきり振り上げた。そんなことをすれば、小刀の扱いに慣れていない楠葉の手では兎の首に傷をつけるのは当たり前だが、スパン、という音と共に切れたのは兎の首に巻き付いていた紫色の塊だけで、兎の首は傷一つなく真っ白だった。
楠葉は、小刀の切っ先を地面に向けると、力強く紫の塊に突き刺した。
すると、紫の塊は声のない悲鳴を上げ、もがき、白い光に包まれて消え去った。
(生き物だったの?)
そんな疑問が過るが、消え去った今では真実を確かめる術はない。
方法があるとすれば、操られていた張本人に何があったのか聞くのが得策だ。
「おい、起きろ兎。お前からはもう妙な気配は感じねぇから殺さねぇよ」
貫も同じことを思ったのか、まだ気絶している兎の耳を乱暴に持ったまま、兎の頬をぺちぺちと叩いていた。
それでも起きないので「おーきーろー」と耳を掴んだままぶんぶんと振り回す。その様子に流石に楠葉は、襲われた側とはいえ、兎が可哀想に見えた。
「ううん……ん?」
兎は苦しそうに呻いた後、薄っすらと目を開けた。
そして「う、痛い!あ、お前俺様の耳を!くそぅ、離せ!あだだだだだ!」と暴れ始めた。
「あ?」
貫がドスの効いた声と共に兎妖怪に顔を近づけ圧をかけると、兎は途端に抵抗を辞めて直立し「はい、静かにします」と怯えて冷や汗をだらだら垂らした。貫の手にぶら下がったまま直立する兎妖怪の姿は、傍から見ればいじめられているようにしか見えず、さらに可哀想に思えた楠葉だったが、今は情報収集が大事だ。
楠葉は、貫の気迫に怯えている兎妖怪に声をかけた。
「あなたは何者なの?」
「ひぇ、人間!?しかも巫女!?ここはまさか神社か!?なんで俺様はこんなところにいるんだ!?」
楠葉の問いかけに悲鳴を上げて振り向いた兎妖怪は、楠葉の姿を見てさらに怯え始める。いつしか、貫が弱い妖怪はそう簡単に近づかないと言っていたことを思い出した楠葉は、こういうことか、と兎妖怪の反応を見てしみじみと思っていた。なんだかんだと、自分を簡単に殺せる対象という者には妖怪といえど近づきたくないものなのだろう。
「怯えてねぇでさっさと答えろ。でねぇと耳引きちぎるぞ。片方なくても平気だろ」
「ひぃやああ!はい、答えます!俺様……いえ、わたくしめは干支族、十二支の兎でございます!妖力の籠った草木を食べて過ごしているためどの干支も基本的に人には手を出さないようにしています!自分の干支になれば人間が勝手に崇めてくれるため、その祈りの力でわたくしたちは命が続きますので人間には害のない妖怪です!なので祓わないでくださいませぇえええ!後生ですからぁあああ!」
耳を引きちぎられるという言葉に相当怯えた様子の兎妖怪は一気にまくし立てた。
「基本的に襲わなくても、黒い糸がついている人間がいるのはどうして?」
「黒い糸?そ、それはなんですか?」
「あ、そっか。普通の妖怪は見えないんだっけ」
貫やチリとララが糸について平然と話すので、人間にとっての空気と一緒というのをすっかり忘れていた楠葉は、兎妖怪が戸惑う反応を見て質問を変えた。
「えっとじゃあ、私を襲うよう命令されたことは覚えてる?」
「命令なんてされてません!わたくしめは人間のいない山で草木を探しておりまして、気づいたらいつの間にかここにいて……あれ、そういえば山で何かに出会ったような」
話している「途中で何か思い出したのだろう。
そこで兎妖怪は言葉を止めると、サァァと青ざめ始めた。
「あ、あ、そうだ、あの方に出会ってしまって、俺様は、指をさされて、あ、あ、あれが、あの方の呪いだったのか」
血の気の引いた顔で、兎妖怪は今にも死にそうなか細い消え入りそうな声でぶつぶつと呟く。
あまりにも異常な様子に楠葉が訝しんでいると、しびれを切らした貫が声を張り上げた。
「ゴタゴタ言ってねぇでさっさと答えろ!その山で誰と会ったんだ!」
「ひぃいいい!とてもわたくしめの口からは言えませぬ!でないと殺されてしまいます!あの方に出会ったということはわたくしめは呪いをかけられ……かけ……あれ、何もない?」
漸く自分の首輪が消えたことに気づいたのか、はたまたそもそも何か攻撃を受けた傷があったのか。自分の体をあちこり触り、何もないことに驚く兎妖怪に貫が「てめぇについていた首輪みたいなもんをそこの巫女が切ったんだ。もし呪われてんならその呪いを祓ってくれてるはずだ」と言うと、兎妖怪は顔を跳ね上げ、楠葉の方を目を丸くして凝視した。
「な、なんと。なんと慈悲深き巫女様!わたくしめをあの方の恐ろしい呪いからお救いくださったのですか!?わたくしが妖怪だとわかっていながら、わたくしごと祓わず、呪いだけをとってくださったのございますか!?」
「ん-、呪いかどうかは私にはわからないけど、あなたについていたものは祓ったはず。で、その『あの方』が誰かわからないから教えてほしいんだけど、教えてくれるかな?」
「しかしそれは、名前を知ってしまえば、巫女様は狙われてしまいます。下手すれば今すぐに殺されてしまうことにもなりかねません!」
兎妖怪の様子にただならぬものを感じ取った楠葉は、これ以上どう質問すべきかわからず助け船を求めるように貫へ視線を送った。貫は楠葉と目が合うと、大きくため息をつき、兎の耳をしっかり握りしめたまま持ち上げ、自分の方へ向けた。
「おい、てめぇ。自分が死ぬかもしれねぇから言えねぇだけだろ?」
「そうではないのです!わたしくしめは巫女様の身を案じて思っていまして、この命は呪われていたのならばもうすでにないも同然でして」
「なら言え。もうすでにそこの巫女はそいつに狙われている」
「なんですって!?」
「つうか、操られてお前がここにいる時点で察しろ。それぐらい考えられる脳みそぐれぇあるだろうが」
「ハッ……!そ、そういうことでしたか」
「わかったならさっさと言いやがれ!」
ぐあ、と貫が怒鳴った瞬間、貫の耳が生え、八重歯が尖り半妖怪化し始めた。
その凄みのある姿に、兎妖怪は目を見開き「あ、あ」と再び怯えて震え始める。
「まさかあなたは……狸妖怪の……浦西様?」
「あ?オレを知ってんのか?」
まさか自分の名前が目の前の妖怪から出るとは思わなかった貫が眉を吊り上げていると、兎妖怪は意を決したように生唾を飲み込み、頷いた。
「はい。なんせ干支族は人間の願いや崇める力のお陰で長生きしている種族。不死身の狸妖怪浦西様の存在は存じ上げておりまする。そしてあなたほどの大妖怪であればあのお方を倒せるでしょう。きっと浦西様も聞いたことがあるはずです」
「オレが知っている?誰だ」
「苦埜(くの)様です」
名前を口にした、刹那。
兎妖怪はガハっと紫色の液体を吐き出した。
貫はその液体がかかる前に兎を離し地面を蹴って後方へ距離を取った。
なんとか液体にかからずに済んだが、吐き出されたその液体はもぞもぞ動きながら縦に膨れ上がり、貫と同じくらいの背丈までになる。
そして人型になったそれは、兎が操られている時に浮かべていた不気味な笑みを浮かべた。
「イタ」