さて、結婚生活初めての夜と言えば誰だって思い浮かぶワードがあるだろう。
そう、初夜だ。
「で、やる?」
「やるわけないでしょがぁ!」
布団の上に偉そうに寝っ転がり、さぁおいで、とばかりに色気ムンムンに黒い袴の胸元をちょっとはだけさせた貫のからかい言葉に、楠葉は盾がわりとばかりに枕をぎゅっと抱きしめながら反論の声をあげた。
「あんた、あれでしょ、鳥居に封印されてた
結婚式の誓いのキスから我に返った楠葉は、それまでなんとか平常心を保っていたが――そもそも意識がハッキリした瞬間、煌びやかな正装をした親戚一同に祝福されている中で取り乱すわけには行かずいつもの営業スマイルを貼り付けるしか思い浮かばなかったのと、楠葉自身、目の前の光景に大混乱していた為何も出来なかったというのが正しいが――いざ自分の身体のピンチとなれば声を荒げずにはいられなかった。
実は結婚式の最中も、こっそりと小指に絡まっている金色の糸を何度か解こうと試みていた。わかってはいても試せずにはいられなかったのだ。だがやはり、いつもならどんな糸でも操れる楠葉でも、金色の糸に対しては何も出来なかった。
「へー、知ってんだ?オレのこと」
楠葉の言葉に意外そうに眉を上げた貫は「よっこいせ」と起き上がると、そのまま布団の上に胡坐をかき、偉そうに頬杖をついた。
「見たところオレが封印されてから数百年は経ってるっぽいから誰も俺のことや対策なんざ知らねぇだろうと思ってたが、これは意外だな。どうやって知った?」
「ひいばあちゃんに教えて貰ったのよ」
「それが楠子か」
「いいえ。
「なんか楠って名前がつくやつばっかだなぁ」
「篠宮家の伝統なの。女の子が生まれたら、必ず楠という字をつけるって。母が嫁入りだから、今のところこの神社で楠の名前を持つのは私だけよ」
「あー。道理で。お前以外にはなーんも力を感じねぇわけだ」
楠葉と淡々と言葉を交わした貫は、合点がいったとばかりに「ふむ」と腕を組む。
そして、未だに枕で体を隠し続けている、寝巻用の白い和装になっている楠葉の姿を上から下まで舐めまわすように見つめた。
「な、なに」
お祓い中に人々の視線を集めることが多くあるため、大衆の面前で集中的に見られることは慣れているとはいえ、異性から真正面からじろじろと見られることには一切慣れていない楠葉の声が少し震えた。運命の糸の色ばかり重視していた楠葉であったが、こんなことであれば、赤い糸で結ばれた人と恋愛経験を積んで異性に対する耐性をつければよかったと、この瞬間楠葉はひどく後悔していた。
「童顔だから見た目ではわかんなかったが、お前、成熟した生娘だったんだな」
ストレートに自分の状態を言い当てられ、楠葉は赤面する。
言葉からするに、楠葉が男に対して免疫がないことも完全に見抜いているのだろう。
「う、うるさいわよ。あんまり興味なかったの、そういうことに」
「ほーん。にしては、オレのこの美形に酔って幻惑にかかってたけどなぁ?」
「うぐ」
生娘を言い当てられるどころか、幻惑のことも言われると楠葉としてもぐうの音も出なかった。
が、ここでふと、楠葉は脳に疑問をよぎらせた。
「なんで、生娘ってわかったの?」
「味見したから」
楠葉の疑問に貫は即答すると、んべ、と舌を出して、指した。
「味見、て……?」
「唾液」
ストレートに短く言葉を言われ、暫く楠葉はその意味が分からずキョトンと首を傾げた。
しかし、その意味が『キス』の際に行われたことだと理解し、途端に楠葉の全身が熱くなった。
「んな……!」
「身に覚えあんだろ。てかさっきのことだし」
「いや、わかったっていうか……キ、キスで、その、私の唾液を、てことって、あんな一瞬でまさか、嘘よね!?」
「美味かったぞ」
あの誓いのキスの時に唾液を味見されたのだと思いたくなくて否定を求めての言葉であったが、むしろ肯定の言葉が返ってきたことに、楠葉は首まで顔を赤く火照らせた。
「初キスが妖怪だなんて……!」
巫女として不甲斐ないという思いと、あの初キスを思い出すたびに胸がときめいてしまう自分に情けなくなった楠葉は枕を落とし顔を覆った。
今すぐ記憶を消したいと願うが、残念ながらそんな術を楠葉は持ち合わせていない。
「ほーん。ほーん??そういう反応ってことはオレの予想通りお前は何にも経験してねぇ綺麗な生娘ってことだ。そんじゃあ、オレがこれからお前の初を全部貰えるわけだ。それは中々にいい気分だな」
「皆まで言うな!ていうか好きにさせてたまるかぁ!」
指の隙間から見える貫のニヤニヤした笑みに、楠葉は思わずその顔面に枕を投げつけた。
だがその程度の投擲は妖怪である貫にはどうってことないらしく、人差し指をぴっと前に向ければ、貫に当たる手前で枕はぴたりと宙で止まり、どさっとその場に落ちた。
その力を目の当たりにした楠葉は、目の前の男が改めて妖怪だと実感し、ざわっと背中に寒気が走るのを感じていた。
「お前もわかってんだろ?これで繋がってる限り俺たちは離れらんねぇ仲だってな」
そう言って、貫は自分の小指を見せる。
そこにあるのは、楠葉の指と繋がった金色の糸。
楠葉がなんとか解こうとしても、硬く結ばれどうにもならなかった糸だ。
それに、心なしか人間同士で繋がれた糸よりも太く頑丈そうにも見える。楠葉はそれが気のせいだと思いたかったが、ひとまずこの運命の糸で貫と結ばれているのは間違いない事実であった。
「そんでもって、お前は異性に耐性がない分、幻惑にかかりやすい。しかも生娘ときた。さらに成熟した力があるというおまけつき。むしろオレのためにその年まで生娘でいてくれたとしか思えねぇぜ。起きてそうそう、最高のごちそうにありつけるなんてな。封印されていた甲斐もあるってもんだ」
言いながら、ごちそうを前にしたオオカミのように目を細め、唇をペロッと舐める貫。
その仕草は楠葉の全身を粟立てさせたが、逆に冷静にもなり始めていた。
目の前にいるのは、慎重に扱わなければいけない妖怪だということを改めて認識し始めていたのだ。
楠葉は、動悸していた心臓を落ち着けるように胸に手を添えながら大きく深呼吸を一つすると、キッと真正面から貫を睨みつけた。
「30代まで運命の糸が見つからなかったから私は力がある分、運命の相手は今世では現れないものなのかと思っていたけど、まさか妖怪と結ばれるとは思っていなかったわ」
「それはこっちの台詞でもあるがな」
「だけど、逆にこれが私の使命だとも思い始めたわ」
「ん?なんだ急に冷静になって」
「いえ、あなたは妖怪なんだものね」
そこで一度貫に対し背を向けた楠葉は、篠宮家で結婚した者同士が与えられる中でも最高級である和風の部屋をぐるっと見渡し、鏡台に目を止めた。そこへ歩み寄り、「開いて」と口の中で唱えると、唯一1つだけある引き出しが、ゆっくりと手前に開いた。
「あなたがどれぐらい封印されていたかはわからないけど、今の時代のことは知らないでしょ?」
「まぁ、確かにな」
「今の時代では、結婚の証として指輪をはめなきゃいけないの。そうでないと既婚者だと認められないの。ぼんやりと覚えているのだけど、ひとまずあんたは私に婚姻届けを書かせて提出させてからあの結婚式をさせたんでしょ?その中で、結婚式が終わった後に指輪のことを他の誰かから聞いたんじゃないかしら?」
「ああ。なんか伝統がうんたらかんたらで楠葉に聞けばわかるだのどーのこーのと力もねぇ人間どもがピーチクパーチク五月蠅かったぞ」
「妖怪だからか知らないけど、あなたって物凄く口が悪いのね」
「オレは特別だ。それに妖怪としては悪いって言われる方が喜ぶからその発言は妖怪に対しては控えた方がいいと思うぜ」
会話に飽きてきたのか、気怠そうな表情をし始める貫。
その様子を横目に見ながら、楠葉は引き出しから手触りが少しふわっとした真っ赤な箱を取り出すと、ぱかりと開けた。
そこには、金色のリングが二つ、横並びになって丁重にしまわれていた。
そのリングに触れ、願うように力を少しだけ込めた楠葉は、リングを二つ取り出し箱を引き出しにしまい、閉じた。そうしてそのまま、貫の真正面に正座で座る。ぴったりとくっついた布団の上に座ることになるため距離がどうしようもなく近いが、今はそれが好都合、と楠葉は口を開いた。
「ま、とにかくなんでもいいわ。はい、手を出して。これを左手の薬指につけるの」
楠葉がそう言って男用のリングを差し出した。
だが、やはり貫はそう簡単に受け取らず、眉を吊り上げて訝し気にリングを見ながら「ああん?別にこんなもんつけなくてもいいんじゃねぇか?」と不服そうな声を上げた。
この反応は楠葉にとって想定内の反応であった。
だから楠葉は、少し視線を落とし、頬を赤らめながら、恥ずかしそうに告げた。
「つけないと、他の人間は私があんたのものだとわからないから手を出すかもしれないのよ。私だって本当は嫌よ。でも、結婚をしたからにはこれをちゃんとつけないと篠宮家全員に怪しまれることになるわ。何より、これを付けてないからこそ私にプロポーズをしてくる男が絶えないのよ。あんたは、知らない所で私が他の人間にちょっかい出されても気にしないの?別につけないならつけないでいいけど、自分のものを知らない内にどっかに連れていかれたり遊ばれたりしてもいいのなら無理強いはしないわ。ただその分、あなたにとって美味しい筈の私が不味くなる可能性はあるけどね。私だってそう簡単にはやられない女だけど、人間の女は、そこまで強いわけじゃないのよ」
言いたくなさそうに振る舞いながらも、その言葉の中に煽るようなものを混ぜながら楠葉は言葉を紡ぐ。
『妖怪は欲に満ちている』
『自分のものを取られるのを激しく嫌うんだ』
いつか曾祖母が言っていたその言葉は、楠子が直筆で書いたと言われる日記にも書かれていた。
他の人には糸が見えないのと同じように、文字が見えない真っ白な古ぼけた日記にしか見えないようだが、楠葉は”妖怪”というものが本当に存在するのだという興奮でその日記を何度も読み返していた記憶がある。
だから、わざと、自分が強くないこと、他の人に盗られるかもしれないこと、というのを強調した言葉を選んだ。
そういった言葉を言いなれていないので実際に恥ずかしかった楠葉だが、その恥じらう様子も言葉の説得力を後押ししたようで。
気づけば楠葉の手首は強引に掴まれ、貫に引き寄せられていた。
「妖怪の独占欲とやらをよくわかってんじゃねぇか。よこせ。つける」
貫はぶっきらぼうに言うと楠葉の手から指輪をひったくり、左手の薬指につけた。
「ん?なんか特殊な力を感じるが、なんだこれ?」
「そりゃあ、篠宮家の特別なものがこもった指輪だからね。そうじゃないと、サイズがぴったりなんておかしくない?」
言いながら、楠葉は自分も女性用の方のリングを左手の薬指につけた。
「そういや、えれぇぴったりだな。ほーん。まぁ、色は悪くねぇな。糸と同じ色してら」
「そうね。じゃあ、まぁ、試しましょうか」
「あ?何を?」
「“お手”」
「は?」
楠葉が言霊を唱えるのと貫が素っ頓狂な声を上げたと同時に。
貫の手が楠葉の手に吸い寄せられるように重なった。
それは、磁石のように“引き寄せられくっついた”という表現が正しいだろう。
ぴったりとくっついた手に、楠葉はにんまりと笑みを広げた。
「うん、大成功♪」