「そういう言い方はやめないか。彼女は何も悪くない」
「悪くない? 本当にそうお考えですの?」
ベルを蚊帳の外に、ふたりの雰囲気は険悪になる。
(ってか、なんでこんなに進展した雰囲気になってんの? わたしと殿下って結局のところ大した交流らしきものもしてないよね⁉)
ひとつひとつが変に目立った接触になっただけで、ベルとクリストファーが親密な会話をしたことはない。ただ、それを見た周囲が勝手に話して噂がひとり歩きしただけだ。
それなのに、諸悪の根源クリストファーまでがまるでベルを擁護するのは当たり前だというような態度を見せている。
ベルの頭の中は疑問だらけで混乱していた。だが、これ以上このふたりを争わせてはならないと。
「お、おおそれながら! 申し上げます!」
クリストファーの背中からベルは声を上げた。声が多少震えていたのは仕方がない。クリストファーが驚いた顔で振り向き、正面に立っていたレティシアと目が合った。彼女は今微笑みさえ引っ込めて冷ややかな目をベルに向けている。
「リンドル嬢、生徒同士が話すのにそんなに堅苦しくする必要はない。以前にも言っただろう」
苦笑しながらベルの肩を叩くクリストファーの頭を、 ベルはひったたきたくなった。
空気読め、このボンクラ! と。
悪役令嬢を敵に回したくない、そう思って行動しているはずなのにその全部を毎度毎度台無しにしていくクリストファーに、ベルは怒り心頭である。
「わ、わたしのようなものに過分なご配慮、痛み入ります。卒業後は文官として身を立てていきたく、そのため努力しております。わたしはそれ以上のことはなにも」
レティシアの怒りは、自分の婚約者に近づく『女性』に向けられている。自分は女性としてクリストファーに近づきたいなど思ってもいないということを伝えたかった。
焦って言い募ってしまった。だが、内容的にはそれほど間違ってはいないはずだ。
それなのに、レティシアの表情はますます凍り付いたものになった。
(え……なに? どうして?)
意味が分からず、狼狽えて周囲を見渡す。だが、周囲はこちらを息を吞んで見ているだけで、特に変わった反応は見られない。
「ああ、いいんじゃないか。優秀な君ならきっと王宮文官の特級試験も合格できるだろう」
「……それはつまり、殿下の秘書にお考え、ということですの?」
その言葉に、周囲にこれまでで一番大きなどよめきが広がる。だけど、ベルにはその意味が分からなかった。
「そのような話はしていないだろう」
「ですがそうとしか受け取れませんわ」
「え? いえ、私はそんな」
クリストファ―の秘書になんて考えてもいないし、王太子の秘書なんてそれこそエリート中のエリートの上に血筋も完璧な男性文官がなるものだろう。ただ文官として身を立てたい、できれば王宮文官なら安心。それを言いたかっただけなのに。
周囲からもベルを非難するような言葉が向けられる。
「なんてこと」
「オースティン様がお怒りになるのも無理はありませんわ」
「……はしたない」
(はしたない? なんで?)
意味が分からなければ反論の仕様もない。狼狽えていると、講堂の入口からパンパンと手を打つ音がした。
「いつまでここに集まっているのですか! 授業が始まります。早く教室に行くように!」
女性講師の声が響いて、みんな一斉に動き始める。レティシアも時間切れとみなしたのか、一瞬ベルに鋭い視線を向けたもののすぐに背を向けて去っていった。
ほっとしたものの、反論する機会が失われたのも確かだ。呆然としていると、クリストファーが小さな声で耳打ちをする。
「何かあれば、シグルドを頼るといい」
「え?」
「権力に逆らえるのは権力だけだ。シグルドなら大抵のことははねのける。教室まで戻れるか?」
最後のひとことだけは周囲にも聞こえる普通の声だった。
「はい。戻ります」
「じゃあ、また。様子を見にいくようにする」
「は? え⁉ それは結構です!」
不敬も忘れてそういうと、一瞬彼はとても意地の悪そうな笑みを浮かべる。王子様然としたいつもの顔とはまったく違って、呆気に取られているうちに彼もまた講堂を出て行った。