「はい、課題を提出に。あ、あの、今日は側近の方は」
「アーネストか? 別に常に行動を共にしてるわけじゃないんだが」
「……そうですか。じゃあわたしはこれで」
「もう授業はないだろう。寄宿舎まで……と言ったら君は遠慮しそうだな。では、馬車止めとの分かれ道まで一緒に歩かないか」
その言葉に、ベルは眉尻が下がってしまう。送ると言われたら遠慮できたが、一緒に歩かないかと誘われれば断る術がない。
幸い、今日は定期考査前日ということもあり放課後は各々試験勉強のために早めに帰ったようだ。職員棟にも学舎と繋がる通路にも人は少ない。
「……はい。それでは、ご一緒させていただきます」
仕方なく、隣に並ぶのではなくせめて一歩分後ろに下がって歩くことにした。並ぶのはそれこそ婚約者にしか許されないはずだ。
「明日から定期考査だけど、準備はどう? 課題を提出に、と言ってたけど範囲が広くて驚いたんじゃないか?」
「そうですね、少し。課題自体は二日前に終わったのですが、復習もしておきたくてギリギリまで提出せずに持っていたんです」
「へえ、偉いね。余裕じゃないか」
「いえいえ、そんな」
笑顔で当たり障りなく返事をしているが、ベルの心中はもちろん穏やかではない。
本当は今日最後の授業の後に、係が集めて職員棟に持っていくはずだったのだが、ベルだけスルーされてしまったのだ。これなら、心情的にはシグルドに小間使い扱いされている時の方がよかったかもしれない。無視されるのはじわじわと心にダメージがあった。
そのシグルドも今は様子見を決め込んでいる。ベルの真意を探っているようにも見えて、良い気はしない。
真意も何も、ベルは真面目に学院に通って無事に卒業したいだけなのに。
(結局、みんな暇なのよね。人の事情にばっかり敏感で。将来に余裕がある人たちは違うわぁ)
ベルはすっかりやさぐれていた。
「そうだ。過去問は誰かにちゃんと見せてもらったのか?」
「過去問……過去問? あるんですか!」
試験勉強をしている間には思い出さなかったが、前世で受験・試験の心強い味方といえば過去問だった。どうして今の今まで思い出さなかったのか。
「後輩の為に、過去の試験問題をとっておいている上級生は結構いる。みんな伝手を頼ってそれを手に入れて試験勉強するんだ」
「そうなんですか……」
試験勉強、学生といえばいつの時代でも世界が違ってもそう変わりはないらしい。
「そうか、リンドル嬢は知らなかったんだな」
「はい。あ、でも、大丈夫です」
そう考えると、入試の時だってきっと過去問で勉強してから挑んだ者も多かっただろう。ベルは知らずにがむしゃらに頑張っただけだったが、なんとかなった。
(いや、でも。上位十位を維持しないといけないし……今後はどうにか入手した方がいいのかな)
といっても、残念ながらベルに伝手なんかはない。もしかしたらアンナは持っているのかもしれないが、彼女は何も言っていなかった。
「すまない、もっと早くに声をかければよかったな。俺のを貸すことができたのに」
「とんでもないです。お心遣いだけありがたく」
即座に顔を横に振って遠慮した。クリストファーの過去問だけはもらうまい。
しかし、完全拒否の姿勢が表情に出てしまったのか。
ぴたりとクリストファーの足が止まる。そうして、少し後ろを歩くベルを振り向いた。
一瞬のことだが、その顔がにやりと意地悪そうに見えた。そのせいで、ベルの作った笑顔が固まった。
「なかなか手強そうだ」
「えっ?」
「いや。余裕だなと思って。教授方も言っておられたが、やはり優秀なんだな」
そんなニュアンスだっただろうか?
一瞬首を傾げたが、その時にはもういつもの爽やかな笑顔に戻っていたので、すぐに別のことに気を取られた。
「優秀ってほどでは」
どの教授がそう言ってくれたのかはわからないが、これからの三年間を思えば幸先が良い。謙遜しつつも、つい口元が緩んでしまう。
「でも、まあ油断しない方がいいかな」
「え?」
「君は特別クラスだろう? 学業に重点を置きたい人材ばかりだろうから、過去問は当然手に入れていると思う」
「……はい」
と、いうことは。みんな、しっかり点数を取ってくる可能性が高い。
「最初の試験だから、慣れないこともわからないことも多いだろうけど頑張って」
口元に手をあてて考えていると、そんなセリフと共に視界が揺れた。ぽん、と頭に手が置かれたのだ。純粋に励ましてくれているその仕草にどうしたらいいのか、反応が遅れた。
頭の上に大きな手の感触と重みを感じる。
「あ、りがとうございます」
平静を装ったけれど、若干どもってしまった礼の言葉に、優し気な雰囲気をまとったクリストファーの微笑みがひときわ深くなる。
そのまま彼は「じゃあ」と片手を上げて馬車止めの方へと歩いていった。
(……頭ぽん、されてしまった)
のろのろと片手を上げて、自分の頭の上にその手を乗せる。さっき、クリストファーが触っていったところだ。
この場に誰もいなかったのは、幸いだった。おかげでベルの顔がほんのり赤くなっていることを、誰にも気づかれずにすんだ。
(ヒーローオーラ、ヤバイ)
試験前日にそんな出来事があり、若干心乱されたベルだったが。心ここにあらずで試験に集中できず点数をがっつり落としてしまった……なんてことはなく。
寧ろ、頑張り過ぎてしまったことに顔色が青くなるのは試験の結果が張り出された翌週のことである。