数秒が数分間にも思えるような息苦しい時間の後、彼女は憂い顔でため息を落とす。
「……とても可愛らしい方ね。殿下がお気にかけるのもわかる気がするわ」
「とんでもありませんわ! レティシア様の御美しさには到底及ばないではありませんか。髪色だって、品の無い」
「物珍しいだけでしょう。僻地から来られたということですし……ほら、雰囲気が。素朴といえばよいのかしら」
レティシア本人はベルに対して悪意のある言葉をぶつけなかった。だが、他二名が口々に失礼なことを言ってくれる。これは、どう考えるべきなのか。
(今のところ、気になるだけでわたしに敵意を持ってはいない? もしそうなら……)
だからといって、今すぐ許しもないのに再び口を開く度胸はないのだが。社交に関わらない田舎貴族出身で、更には時々前世の感覚に引っ張られはするが、身分社会に生まれたものとして沁みついている感覚はちゃんとある。
「レティシア様がお気になさるような者ではございませんわ」
「田舎から出てきてまだ間もないということですから。入学前に常識くらい身に着けておくべきですわね。……人の婚約者に必要以上に近寄らない、とか」
あからさまな侮蔑の言葉に、かっと顔が熱くなった。近寄っていない、決してベルから近寄ったわけではないのに。
やはり、こういう時に悪く言われるのは、弱い方なのだ。
(近寄ってないし! 元々は偶然ぶつかっただけで、昨日は王太子殿下からだし、手だって握られてない)
誤解です、とせめてマナー違反と言われてもそれくらいは、主張したい。
意を決して口を開こうとすると、レティシアと瞳が合った。ぞく、と背筋が寒くなる。とても目が冷たい気がしたのだ。
「――あ」
言葉というより、喉から絞り出されたような声が出た。その瞬間、ふいと視線を外したレティシアはそのままくるりと背を向ける。
「それにしても、なんだか薄暗くて気持ちの悪い場所ね」
「日当たりが悪いからでしょう。花も植えてありませんし、そもそも花壇を誂えてもおりません。陰気な雰囲気はレティシア様には似合いませんわ」
行きましょう、とレティシアに倣って他のふたりも踵を返す。歩き出す前に一瞬だけ振り返り、ぎろりと睨まれた。
(え、顔を見に来ただけ?)
貴族令嬢の足は遅い。すっかり姿が見えなくなるまで気が抜けなかったベルは、彼女たちが学舎に入ってからようやく息ができたような気持ちだった。
何か忠告をされるのかと思った。そうしたらベルも弁解することができたのかもしれないが、結局口を開く余地はないまま終わってしまった。
悪役令嬢らしい、脅すようなセリフもなかった。だけど、視線はこちらが凍り付くほどに冷たく感じたのは、先入観があるからだろうか。
どちらにせよ。
「……あー……せっかく、チャンスだったのに!」
頭を抱えてその場にしゃがみ込む。普段は接点もなく近づくことも難しいレティシアに、自分はそんなつもりはないと自己主張できる滅多にないチャンスだった。
わかっていたけど、できなかった。
「ベルー!」
聞き慣れた声が聞こえて、顔を上げるとアンナがこちらに早足で向かってきていた。
「ご、ごめんねベル! 大丈夫だった?」
「アンナ!」
「遠くから見えてたんだけど、近寄る勇気がなくて。本当にごめんなさい」
心配してくれていたようで、アンナの表情は若干蒼褪めて見える。
「……すっごい、迫力だった」
「えっ」
「オースティン様。公爵令嬢だから当然なんだろうけど、肌も透き通るみたいに真っ白で艶々で、銀色の髪も」
確かに怖かったしその存在感に気圧された。けどそれ以上に、ベルは彼女の美しさにも圧倒されていた。
「さすがだった……」
呆然としながらそう呟くと、アンナは呆れたような表情をした。
「なんだ、結構余裕があってよかった」
「いや、余裕はないけど。本当に……綺麗だったよ。段違いだった」
悪役令嬢だとかヒロインだとか関係ない。ベルだって前世の記憶を思い出した時、今世の容姿を確認してさすがヒロインだと感じた。だが、レティシアを目の前で見て格が違うのだと気付かされた。洗練された美貌とその佇まいは、まさに彼女こそが未来の王太子妃、いつか王妃となる女性のものだった。
「それは、綺麗だろうけど。……でもベルも綺麗だし可愛いよ」
「えっ、そんなことないけどありがとう」
ベルが落ち込んでいるのかと思ったのか、アンナが拳を作って励ましてくれた。
実際、少しどころか結構へこんでいたらしい。心がほんの少し温かくなった。
◆◇◆
その後も遠巻きに陰口を叩かれ、クラス内では腫物のような扱いでシグルドさえベルに近付かない中、相変わらず空気の読めない男はベルを見かける度に近付いてくるようになった。
「リンドル嬢! 昨日放課後に図書室に行ったのに会えなかったな」
まじでいい加減にしてほしい、とベルは荒ぶる自分をどうにか抑え込んでいる。課題の提出に職員棟へ行ったその帰り道で、朗らかに声をかけられ聞こえないフリもできなかった。
「王太子殿下にごあいさ」
「そういうのはいい。通路で立ち止まっては迷惑になるだろう。教授に用が?」
ぽん、と背中を叩かれて一緒に歩くよう促される。クリストファーの後ろにはいつも一緒にいるアーネスト・グレイシス公爵令息も、誰もいなかった。正真正銘ふたりになってしまっている。