翌日、噂に尾鰭が一枚増えていた。
図書室での出来事が原因だとわかりきっていたが、ベルは言いたかった。誤解だ。激しく誤解だ。
『王太子殿下と男爵令嬢が図書室でふたりきりになって、殿下が令嬢の手を握っていた』
(誤解ですー! 激しく誤解ですー! 王太子殿下はわたしに興味なんて欠片もありませんー!)
今この手に拡声器があれば、ベルは学院中に聞こえるように説明したかもしれない。もうはしたないとかそんなことは言っていられない。
ちなみに、この世界にも魔石を利用した拡声器がある。王城や公共施設には大抵置いてあり、公共行事や祭りなどによく使われている。もちろん、この学院にも探せばどこかにあるだろう。
「ふたりきりじゃなくて、途中までアンナと側近候補のグレイシス様が一緒だったし! 手を握られたんじゃなくて、わたしの前にあった本に手を置いただけなのに!」
「べ、ベル、落ち着いて……」
登校早々、ベルはアンナに引っ張られていつもの裏庭まで来ていた。もうじき一時限目の予鈴が鳴るが、その音が聞こえてから教室まで走ろうと思っている。アンナは巻き込まれて申し訳ないが、今後はひとりで逃げるので今回だけは走るのに付き合ってほしい。
ベルは学習している。噂はまず第一日目が一番、人の目が厳しい。数日経てば皆飽きてくるので、下火になるまでは出来る限り陰に隠れていることにした。
何せ、怖かったのだ。学舎の中は学年ごとにフロアが違うので、他学年と出会うことは滅多にないが校門をくぐってから学舎に辿り着くまではそうもいかない。
今朝、三学年の女子生徒たちから向けられた目は、今まで以上に殺気に満ちていた。これはもう、完全に昨日のことがレティシアの耳に入っていると、ベルは確信した。
「ごめんね、ベル……わたしが途中で先に帰ったから」
「ううん、迎えの馬車をあんまり待たせるわけにもいかないでしょう? アンナはあの後大丈夫だった? グレイシス様と……」
「うん、わたしは大丈夫。親切にちゃんと馬車止めまで送ってくださって、まだ来ていなかったから来るまで一緒にいてくださったの」
「そっか、よかった」
随分緊張していた様子にベルは心配していたのだが、ほんのりと嬉しそうに頬を染める様子に安堵した。案外アンナはミーハーなタイプである。もっとも彼女にとって高すぎる身分の方は、憧れの対象というだけのようだが。大半の下位貴族の令嬢は、そういうものだろう。
アンナへの心配が解決するとやはり、頭の中は噂のことでいっぱいになる。
「大体、おかしくない? この噂が例え真実だったとしてよ? どうして責められるのがわたしだけなの? 寧ろ殿下の行動がなければ避けられている出来事なのに?」
(これが、女の敵は女、というやつか)
「それは……だって、誰が王太子殿下を責められるのよ。殿下は人格者で知られているし」
「人格者は浮気なんてしないでしょ」
「それはそう……言いやすい方に結局向くものなのね」
「ほんとそう。でもひとり……可能性があるのは」
頭に浮かぶのは、クリストファーと対を為すような色を持つ彼女。美しさもさることながら、存在感もクリストファーに負けてはいない。
「可能性があるのは?」
「……殿下の、婚約者ご本人。レティシア・オースティン様」
アンナの問いかけに、小さな声で呟く。すると、アンナはびくっと身体を震わせて背筋を伸ばした。彼女なら対等に話せるはずで、そうする権利もあるはずだ。実際彼女はこの一件をどう考えているのだろうか。
「ほ、本気? まさか、オースティン様に殿下を諫めてもらうの?」
「いや、そこまでは思ってないけど……そもそも近づくこともできないし。彼女は殿下と違って、下位貴族とほとんど交流ない様子よね」
学院内でクリストファーを止められる人間など、彼女しかいないのは確かなことだ。
彼女の存在は怖いが、それ以上にベルは噂に腹が立っていた。あの腹の底の見えなさそうなクリストファーにも腹が立つが、矛先を全部ベルに向けてくる風潮そのものに腹が立つ。
変に恋愛感情があるような内容で流れされているが、それは見る側の勝手な憶測であって真実ではない。ベルはもちろんクリストファーにもそんな気配は微塵もないのに、一方的にベルだけが婚約者のいる殿下に近付く悪女のように言われるのは心外だ。
それを払拭するには、どうすればいいか。クリストファーに近付けばまた噂が広がるに決まっている。だとすれば――
学舎の方から一限目の予鈴が鳴り響く。
ベルは一旦考えることを止め、アンナと一緒に教室へ向かった。