図書室は、いまだ人がちらほら残っている。だからふたりきりというわけではないのだが、つまりは目撃者も複数いるということになる。
(本当に、どうしてこの人は、こうも神出鬼没なのか。そして、どうしてわたしに絡んでくるのか)
その場を離れる口実を失い、ベルは黙ったまま俯いた。
「それで、セーヌ語は?」
クリストファーが、場を仕切り直すように再び尋ねる。ベルは彼の表情を見て、ふと妙な印象を抱いた。
『話せます。日常会話程度ですが』
セーヌ語で答えながら、ベルはクリストファーをじっと観察した。誠実で清廉潔白な王太子。身分の低い者にも分け隔てなく接する人柄で、社交界のみならず市井でも支持を得ている。
正しく王国の若き太陽で、浮かぶ微笑みも陽の光のような……印象だったはずなのだ。だが、その微笑みはこんな作り笑いだっただろうか。
『それも領地で覚えたのかな。リンドル領はそんなに異国人との交流が多かった?』
『治水工事などで、隣国の業者が入ることが度々あったのです。ご存知とは思いますが、リンドル領は辺境伯領と隣接しています。隣国から辺境領、そこから王都までの交易路の途中で、リンドル領に立ち寄ってくれる業者や行商人もいるのです。隣国はエラル語がつかわれていますが、その隣の国はセーヌ語なので……』
あらぬ疑いをかけられてはかなわない。緊張しながらも落ち着いて説明していたが、その間もずっとクリストファーは微笑みを崩さず聞いている。
何かが怖い。何かがおかしい、と頭の中で警鐘が鳴っていた。
『なるほど、理解した。セーヌ語でそこまで事情を説明できるとは、日常会話どころじゃないじゃないか。本当に優秀だな』
途端に、ベルの頭にシグルドの言葉が思い出される。生徒会の補佐を一年生から選別することがある、と言っていた。
まさか、と血の気が下がった気がした。できる限り接点を持たないようにしたいのに、そんなことになればまた噂に尾ひれ背びれがついて、今度こそ取返しがつかなくなってしまう。
『これは、何かの試験ですか?』
『そんなつもりはないよ。ただすごいなあと思っただけ。セーヌ語を話せる人材はまだ学生の中にはほとんどいない。だから、内容を聞かれる心配もないしね。余計な噂を気にせずに、話したいことを話せる』
その言い方でクリストファーが噂のことをちゃんと把握しているのだとわかる。余りにもお構いなしに声をかけてくるので、もしや周囲から情報を遮断されているのかとも思ったが、そうではなかったようだ。
『これならセーヌ語の勉強をしていると思われるだろう?』
『誰にも分らない言葉で話すなんて親密だ、と思われるかもしれないじゃないですか!』
『ううん……そうか。あちらにもこちらにも気を使うなあ。俺はただ、話したいと思った相手と話しているだけなのに』
王太子殿下の真意が、ベルにはわからない。話したいと思った相手というが、ベルと本当に話したいと思っているのだろうか。噂を知った上で、だ。婚約者を煩わせる可能性も加味して、ベルと話したい理由。
少なくとも小説のような、いずれ恋心に育つような甘い感情ではない。ベルはクリストファーの表情を読み、そう判断している。
だったら尚更、理由が見つからないから困っているのだが。
『そうだ、あれから街歩きはできた? まだ王都に慣れていないと言っていただろう』
『だいぶん慣れてきました。今度、アンナに案内してもらうつもりで楽しみにしているんです』
嘘はついていない。決まった店に行く分には慣れてきたし、アンナとまだ約束はしていないが誘うつもりでいる。なので、まるっきりの嘘ではない。
『そうか。時間があれば俺が案内しても良いんだが』
『そんな、滅相もない。殿下のお手を煩わせるわけには参りません』
『慣れない生徒を気遣い手助けするのも、生徒会の務めだからね。遠慮することはない』
『ありがとうございます。お心遣い、痛み入ります』
ふふふ、と口元を押さえて微笑むと、クリストファーも頬杖をついてふふふと笑う。なんの化かし合いだろうかと、ベルは気が遠くなりそうだった。