現実的に考えて、ベルに王太子妃なんて務まるわけがない。あの聡明で誠実そうな人物が、婚約者を裏切って身分違いの男爵令嬢などを選ぶだろうか。
自分も彼も生きた人間なら、物語を辿るようにまったく同じようにはならないはずだ。だが、物語と一致する出来事が起こったとなると、警戒せずにはいられない。
(徹底的に避けようにも、細かく思い出せないこともあるのよね。文章ではさらっと説明だけで終わらせたとか? ああ、あの四角い箱が欲しい。もう一度隅から隅まで読みたい……)
「出会ったふたりは、急速に惹かれ合うのよね。でも急速ってどうやって? 今日は会ったけど、普段はまず会うことがないのに」
どんなエピソードがあっただろうか。思い出そうとするけれど、ノートに書き出せるような内容が出てこない。とりあえず、すぐに思い出せることだけをまず書き留めた。
「まず、中庭で王子とぶつかり、医務室に運ばれる。これは、避けまくったのに食堂で同じことが起こって、結局同じような効果になったということよね。それから親しくなった後は、噂が回って婚約者の【レティシア】に知られてしまう」
怒った【レティシア】とその一派からベルは嫌がらせをうけるようになるのだ。それを知った【クリストファー】に庇われて、悪循環になる。プライドの高い【レティシア】は、自らが蔑ろにされていると感じてベルに嫌がらせを始める――と、そこまで書いてベルはペンを置き、頭を抱えた。
「……そりゃ怒るでしょ。婚約者なんだから」
親しいといってもこの段階ではまだただの友人の間がらだっただけだ。ただ【ベル】は、身分に関係なく接して欲しいと言われて少しだけ気安い話し方だった。だが高位の貴族令嬢からすれば、とても失礼な態度だったのだろう。それを許している【クリストファー】のことも許せなかった。
しかし、本当にこれは起こるのだろうか。
今日出会ったクリストファーは、確かに気さくな人物ではあったが誰とでもそういう態度だと聞いている。誠実であるという定評もある。婚約者が悋気を起こすような相手を簡単に作るとは思えなかった。
「……考えてもわからないわね。まずは、最後まで書こう」
【レティシア】は婚約者の気持ちが自分から離れていくのを感じて、ますます【ベル】を追い詰める。【ベル】は学院を辞めることを考え始める。それを止めたのが【クリストファー】で、国の為に力を貸してほしいと頼まれるのだ。ロベリア国は平和だが、内政は貴族派の力が強くなり王家の求心力が弱くなっていた。その為の政略結婚だが、公爵家は娘が王太子の婚約者という立場を利用して私服を肥やすようになっていたのだ。
そうして、最後は【レティシア】が自爆する。破落戸を雇って【ベル】を襲わせようとする。怒った【クリストファー】にとうとう婚約破棄を言い渡された。
「作品概要に載る量の文章で収まってしまった……」
書き出した文章を改めて読み直し、ベルはまた考え込んだ。
あらすじはよくある王道のお話だ。だが、細かいエピソードを思い出そうとすると、やはり記憶に薄く膜がかかったようにぼんやりとしてしまう。
昨夜、実家からの手紙が届いた時は、【ベル】の弟が生まれた時のことをはっきりと思い出せたのに。それから、王太子殿下との出会いのエピソードは、入学式で壇上にあがった王太子殿下を見た時だった。
「なにかきっかけがあれば思い出すのかしら」
どうせ前世を思い出すなら、もう少し親切な仕様にしてほしかった。ざっとしたあらすじだけでは、大事なところがさっぱりわからない。
とにかく今できることは、【クリストファー】と【ベル】が親しくなるというのを現実にしないことだけか。
少し前は、王太子殿下と知り合う機会が本当にあったら、王宮文官になる夢の近道になるかもしれないと思ったが、今はそんな呑気にはなれなかった。
(食堂でぶつかってからの一連の流れが、あっという間過ぎて怖すぎる……!)