「本当はもっと早くに声をかけたかったんだけど……なかなか勇気が出なくて」
ふたりでサンドイッチを食べながら話をしていると、ふと彼女がそんなことを言い出した。
「いいの。わたし、浮いてるから声かけづらいのはわかってるから」
気にしていないわ、とベルが言うと彼女はほっとしたように頷いた。
「ベル、社交界デビューしてないでしょう? だからよ。特に高位貴族の人たちは社交界での立ち位置を今から重要視されているから、社交界に出ていないということは家に問題があるのではと思うから。その、子爵家程度だと高位の方たちに距離を置かれている人にはなかなか声をかけられなくて……」
「はああ……やっぱりそういうことよね」
こんなことなら、多少無理をしてでもデビューをしておくべきだったか。だが、あの父親が進んで準備してくれたとは思えないし、将来文官を目指して自立するなら必要ないと思ってしまったのだ。あの頃は。
「でも、じゃあ今日はどうして?」
「えっと……ごめんね。今朝、フィールズ様がベルのことを庇っていたでしょ。それでちょっと……勇気をもらって」
アンナは少しバツが悪そうに目を逸らした。つまりは、クラスで一番身分の高い男子生徒がベルを庇ったから、大丈夫だろうと判断したらしい。
「ご、ごめんね」
「ううん、いいの。仕方ないよ、身分社会だものね」
「学院内といっても、結局社交界に出ることを思えば身分を気にしないわけにはいかないのよ……」
まったくその通りだとベルも思う。学院在学中だけ無礼講なんて言っても、卒業後に影響は出る。そう考えると、なんと中途半端な校則か。
「今までは他の御令嬢たちと一緒にいたよね?」
「時々ね。親しい子はクラスが別れてしまって……クラス内では伯爵家のアイリス様が顔見知りで、声をかけてくださってたの。でもやっぱり、中々話が合わなくて……」
「そうなの?」
「アイリス様は他に仲の良い伯爵家の御友人がいらっしゃるの。おふたりの話に入っていけない時もあって」
子爵家と伯爵家なら爵位の差はひとつくらいだ。それでも、伯爵家は高位になるからやっぱり気疲れはしてしまうらしい。
昼食の時間が終わり、ベルとアンナは一緒に教室へ戻った。途中、投げかけられる視線は相変わらずだが、ひとりの時とは段違いに心強い。
だけど、アンナには少し申し訳なく感じた。
「ごめんね、アンナ。わたしのせいで」
「……覚悟はしてたけどすごい視線を感じるわ」
「ほんとごめん」
「……大丈夫! フィールズ様が庇ってくださったということは、直に知られるだろうし。そうしたらきっとそのうち和らぐわ」
「そ、そうかな」
今まで小間使い扱いされたのは嫌だったが、こうなると頼りにしてしまうのだから我ながら都合がいい。しかしながら、弱い立場の下位貴族として賢く立ち回るのもまた、社会勉強というやつだ。
クリストファーと出会ってしまったことは、もうどうしようもない。だがアンナが声をかけるきっかけになってくれたと思えば、これも怪我の功名か。
(うれしい……やっと友達ができそう……いやもう、これできたって思っていいのかな!?)
心なしか足取りも軽く、教室の前まで来た時だった。
ベルは、ひゅっと息を呑んだ。
「ああ! 会えてよかった、リンドル嬢!」
そこには、目映い美貌の王太子が立っていたのである。
(なんで⁉)
呆気に取られたのも一瞬、周囲の視線を感じてはっと我に返る。ベルとアンナは慌てて膝を曲げて腰を落とし、礼の姿勢を取った。
「王太子殿下、ご機嫌うるわしゅう」
「身体は大丈夫? 心配で様子を見に来たんだ」
「ありがとう存じます。この通り、問題なく過ごしております」
「だから言ったでしょう、殿下。リンドル嬢なら問題なさそうだったと」
教室の中から声がして、顔を上げるとシグルドが呆れたように肩を竦めている。尋ねてきたクリストファーに彼が対応していたようだ。そのことに、少しだけ安堵する。彼が間に入って話してくれることで『ベルに会いに来た』というより『具合の確認をしに来た』という印象の方が強くなってくれそうだ。
「そうは言うけど、シグルド。ちゃんとこの目で確認するまで安心できないだろう。みんな俺には遠慮して、本当は痛くても隠したりするから」
「そんなにあちこちで人にぶつかっているんですか、あなたは」
「例えだよ。腹が立ったり嫌だったりしても、俺に対しては言わないってことだ。シグルドは意地悪だな」
「そりゃまあ、そうでしょうが」
(さすが……侯爵家の嫡男ともなれば王族相手に会話するのも慣れてるのかな。学年が違ってもこんなに親しく話せる間柄だなんて)
気安い雰囲気で話すふたりを見ていると、きっと普段から交流があるのだろう。もしかすると子供の頃から、幼馴染のような関係なのかもしれない。
「殿下が余りにも気軽に接するから、リンドル嬢が困惑していますよ」
「そうか?」
くるりと空色の瞳がベルを見て、ベルはびくっと肩を竦める。このまま黙っていれば会話に混ざらずに済む……と油断していたというのに。
「ほら、怯えてるじゃないですか」
「え、いいいいえ、そんな」
「リンドル嬢、どうかそんなに怖がらないで欲しい。ぶつかってしまったのは、本当に申し訳なかったと思っている」
「滅相もございません!」
頭を下げようとするクリストファーにベルは蒼褪め、慌てて止める。今朝、早々にミルバ侯爵令嬢に苦言を呈されたのだ。教室内から、クラスメイトたちが見ているというのに、王太子殿下がベルに向かって頭を下げるなど絶対にさせられない。
「クラスまで会いに来てしまって、迷惑をかけたね」
「お心遣いは大変ありがたく感じております。ただただ、恐れ多いだけで……」
しゅん、と絵に描いたように落ち込むクリストファーを相手にどうすればいいのかなど、社交術をしっかり学んでいたとしても大抵の御令嬢にはわからないのではないだろうか。当然、ベルも焦るばかりだ。
「嫌だったかな?」
「滅相もございません! 本当に、感謝しております!」
焦り過ぎて語彙力が低下してしまう。ただベルが必死なのは伝わったらしかった。「ぶっ」とシグルドが吹き出し、その後すぐにクリストファーまで笑い出した。
「狼狽えすぎだ」
「はははっ、そこまで緊張するものかな」
「……申し訳ありません」
からかわれたのだ、と気が付いた。かあ、と火照る頬をどうすることも出来ずどうにか微笑みだけは維持して、ベルは心の中で毒づいた。
(そりゃあ常に人の上にいる環境で育った人はね! 簡単に言うけど、下の者にとったら死活問題なんだってば!)
タイミングよく、午後の授業が始まる予鈴が鳴り響く。ベルにはそれがまさしく天の助けだった。