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幕間ーベルと【ベル】

 リンドル家に嫡男が生まれたのは、【ベル】が十歳の時だった。


「よくやった! よくやったぞイベリア! やっと我が家の跡継ぎが生まれた!」


 父親のはしゃぎっぷりを見て、今まで嫡子だった【ベル】は胸が焼けつくような焦燥感に襲われていた。ロベリア国は、女でも家督を継ぐことができる。だがそれは男が生まれなかった時に限る。あくまで男児が優先で、たとえこれまでどれだけ努力を重ねてきたとしてもそんなことは関係なかった。

 その努力が実って、既に今父親の仕事の実に半分近くも危なげなくこなせるようになっていたとしても。祖父が亡くなり、突然領地経営のすべての仕事が自分ひとりに圧し掛かってきた父。混乱する父を助けてきたのは【ベル】だ。


 貴族令嬢としての勉強だけで残りの時間に余裕のあるユリアがいつもうらやましかった。毎日母と庭でお茶をしたり、散歩したりしたかった。ユリアと並んで母に刺繍を教わったり、バザーの準備をしたりしたかった。【ベル】が母やユリアと並ぶのは、食事の時間くらいだ。それだって、忙しい時は執務室で仕事をしながら摂ることもある。

 嫡子ならして当然の我慢と努力を、表にだすことなく呑み込んできた甘えを、弟が生まれた瞬間になかったことにされてしまう。貴族家なら、これもまた当たり前のことだった。


 それは【ベル】にもわかっていた。ただ、待望の嫡男の誕生に湧くこの瞬間に、【ベル】を慮ってくれる人間が誰もいなかった。ずっと男児を産めとプレッシャーをかけられ続けた母も、涙を流して喜んでいる。妹のユリアは、自分より下が生まれたことが単純にうれしいらしく、無邪気に笑っていた。


「ベル! お前ももう無理に勉強なんてしなくていいんだからな!」


 父の言葉は【ベル】にはお役御免の解雇通知のように聞こえた。だけどそれも、嫡子ではなくなった【ベル】の被害妄想でしかない、彼らにとっては。

 だから【ベル】も笑った。言わなかったし、泣かなかった。


 嫡男が生まれたからといって、【ベル】の忙しさが突然なくなるわけではない。寧ろ忙しい時もあった。何せ、父親が初の男児に夢中で仕事に手がつかなくなったから。


 それでも【ベル】は少しずつ呑み込んで、跡継ぎのプレッシャーからは確かに解放はされたしと前向きに考えられるようにもなった。ユリアを羨ましいと思うこともあったのだから、きっとこれでよかったのだ、と。


 その代わり、外の世界に期待を膨らませるようになった。


 貴族令嬢としてはいつかどこかに嫁すのが普通だ。だが、その前に貴族学院に通うことができる。父親は、貴族学院は金がかかると消極的だったが、ここまで勉強したのだから絶対に行きたいと主張した。仕事を手伝わせている後ろめたさもあるのか、成績上位を維持して奨学金をもらうならと許可してくれた。


 家族から離れて、友人を作って、自分のために勉強する。そして、そこで自分だけの居場所を探すのだ。

 出来れば嫁入り先を探すのではなく、自分ひとりで生きてい行けるように就職先を。安心安全、安定を考えるなら、王宮文官が一番望ましい。


 自分自身を見てくれる場所、自分自身を見てくれる人。そして自分を必要としてくれる人を、【ベル】は自らの手で探すことにしたのだ。その先で運命に出会ってしまうことも知らないで――




「いやいやいや。だから悲哀が過ぎるって」


 前世の物語を詳細に思い出すのは、なかなか難しい。何せ、いくら嵌っていたとしても実体験ではなく、物語なのだ。本で読んだ内容を詳細に思い出す時は、今の現実で実際にあったことを考えている時に「そういえば」と思い浮かぶことが多い。

 今は、実家から手紙が届いて、その中にマイルズの書いた短い手紙も入っていたので「大きくなって……」と感動している時に思い出した。


 前世で読んだ物語のベルは、家族に省みられない寂しい令嬢だった。おまけに悪意なく仕事処理能力を搾取されて、それは嫡男が生まれてからも変わらなかった。だからベルは、自分は家族から労働力としてしか求められていないと感じていた。それを言葉にできないまま大きくなり、家族との溝が深くなっていったのだ。


 かわいそうといえばかわいそう……大まかに考えれば間違ってもいないのだが……実際のベルとの剥離がすごい。

 嫡子から下ろされたのも本当だし、その時に複雑な感情を抱えたのもその通りだ。祖父の教育は泣くほど厳しかったし、子供の頃から仕事をたくさん任されていた。


(あ、こうして並べると結構悲しい。でもなあ……)


 現実のベルは、マイルズがまだお腹の中にいる時にかなり父に苦言を呈した。三人目の懐妊に、父は異様なほどに自分の妻を追い詰めプレッシャーをかけ続けたのだ。それを間近に見ていたベルは黙ってはいられなかった。


『男女産み分けなんてできるわけないでしょう。自分だって、男になろうと思って生まれたわけじゃないくせに』

『どうしてお母様ばかり責めるのよ。そんなものは神様の采配なのに、どうにもできないことで攻め続けて、お腹の中の子に何かあったらそれこそお父様の責任では?』


 父親は生意気なと本気で怒ったが、ベルの言葉で変わったのは母イベリアの方だった。

 はっと今目が覚めたような顔をして、今まで逆らったことのなかった父親に初めて反論したのだ。


『そうだわ……あなたもそう、お義母様もそうだった。どうして女ばかりと責められたけど、誰も男を産む方法なんて教えてくれなかったじゃない』

『なっ、お前まで何を……』

『そんなに男男というなら、教えてくださいな。あなたはどうやって男に生まれましたの?』

『ぐっ……』


 いつもならもう少し言い返したのだろうが、初めて妻に冷たい目で見られて明らかに狼狽えていた。そうなると、調子のいいユリアも母の側について、女VS男の構図が出来上がったのである。人数の面で父に勝ち目はなく、すごすごと引き下がった。


『ベル、お母さまを庇ってくれてありがとう。うれしかったわ。なんだかね、ベルの言葉を聞いてすっと目の前の霧が晴れたような気がしたの……今までがなんにも見えてなかったみたいに』


 その日から、急に何かが大きく変わるようなことはなかった。ただ、時々母が気遣う言葉をかけてくれて、仕事を押し付ける父を叱ってくれた。ベルはほんの少し、家の中で息がしやすくなった。


「結局生まれたのは男のマイルズで、大喜びする父にいらっともしたけれど。やっぱり可愛いものは可愛いのよね」


 手の中にあるマイルズの手紙に視線を落とす。ミミズがのたくったような酷い字で、とても短いがちゃんと読める。字が書けるようになったんだな、と感慨深い。


「あねうえ、がんばってくらさい、まいるず、だって。ふふふ……お姉さまは頑張って王宮文官になるからね。まだ秘密だけど」 


 ランドル家で起きた出来事は大きく変わらない。ベルが出した答えも同じ王宮文官だというのに、心持ちは全然違うという、不思議な感覚だった。



 ――そんなことを考えていたのが、昨晩のことだった。


(結局出会ってしまった上に、微妙にポイントを押さえてきていることが怖い)


「今、通りがかった生徒に先生を呼びにいくよう頼んだ。もう少し我慢して欲しい」

「とんでもないことでございます。お手を煩わせてしまい、申し訳ございません……」


 ベルは今、医務室の椅子に座らされている。恐ろしいことにクリストファーとふたりきりになってしまったのだった。



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