入学式当日は、新入生は式典への出席の後は明日からの学院生活の説明と注意事項、そのクラス編入の連絡のみで解散になった。各々、家族でお祝いをしたりして過ごすため寄宿舎はシンと静まり返っている。残っているのはベルと同じように家族が入学式に来ておらず、ひとりで出席した者だろう。食事は寄宿舎の食堂で出してもらえるため、ベル的には何の問題もない。
夕食の後、入浴も済ませてベッドで仰向けに寝転がる。頭の中は今朝思い出した前世の記憶、特に自分が主人公の物語『ロベリアの花』のことでいっぱいだった。
(わたしがあのお話のヒロインだってことはわかった。王子様もいるし、悪役令嬢レティシアも存在するし、間違いはないんだけど……どうしてもピンと来ないというか)
今朝はかなり混乱して気も昂っていたが、半日経つと前世の記憶も大分馴染んで落ち着いてきた。
全部を思い出したわけではない。今まで生きてきたベルという人格はそのままだから、そこに前世の記憶が混じっても現世の感覚や価値観が先行する部分がほとんどだ。
王太子との恋なんて、あまりにも恐れ多くてとてもじゃないが信じられない。想像しただけで背徳感でいっぱいになり、教会へ懺悔しに行きたくなってしまう。
ロベリア国は戦争もない穏やかな治世が続いている。外交も進んで文化も豊かになり、貴族でも結婚に政略ではなく個人の意志が尊重されるようになってきているという。けれどそれでも、貴賤結婚には厳しい目が向けられるのが現実だ。
「勇気あるわよね……どれだけの想いがあったらそんな覚悟ができるのかしら」
どう考えても他人事のような感想しか出てこない。
「そもそも、物語のベルって実際のわたしとはなんかちょっと違う気がする。実家では厳しい家庭環境で嫡男が生まれた途端に邪魔者扱いされ、娘に興味のない父親に仕事を押し付けられてこき使われる不遇の令嬢って……設定は合ってるんだけどそこまで悲哀に満ちてはいないというか。でも改めて考えると、結構ひどいわ。覚えてなくても前世の素地があるから気にしてなかったのかしら」
祖父が亡くなってからは、自分の勉強をしながら父の仕事も半分近く受け持っていた。確かにちょっと酷い。弟が生まれた直後から、父のベルへの態度はぞんざいになった。母は妹の教育と弟の世話にかかりきりで、ユリアも甘えたりないうちに弟が生まれたものだから寂しかっただろう。父とマイルズは横に置いておいて、それ以外の家族はみんな余裕がなかった。
けれど、貴族の家なら嫡男を大事にするのは当たり前だ。ここはきっと現世のベルの価値観。
だから職業婦人を目指してしまえ、というのが前世の自分の価値観か。それは前から決めていたので、やっぱり記憶を思い出す前から素地はあったような気がする。
「あ、待って。もし本当に王子様とお近づきになるなら、文官目指すのにも有利じゃない?」
はっと思い付いて、勢いよく起き上がる。別に、無理に近づく必要はない。できれば王太子殿下は遠くから眺めて目の保養にするに留めたい。
それでも万が一、物語の展開どおりに彼と出会うことがあったなら、その時は徹底して一後輩として、臣下としての礼を貫けばいいのだ。誰の目にもわかるほど、はっきりと。そうしていれば、穏便に学生生活が終わり王太子殿下のお墨付きがもらえるかもしれない。
大体、王太子殿下はともかく怖いのは婚約者のオースティン公爵令嬢だ。筆頭公爵家の、生粋の貴族令嬢。確か王家の血筋でもある。そんな人に逆らったら、それこそ扇の一振りでリンドル家など消し飛ばされる。
「まずは、近付かないこと。考えてみれば王太子殿下もオースティン様も、最終学年だし、普通にしてれば関わることはないはずだし。殿下とベルの出会いは中庭だっけ……何か所かガゼボやベンチもあったけど、できるだけ近づかないでいよう。もしも出会うことがあっても、ひたすら低姿勢」
そして、三年間真面目に勉強して、まずは成績優秀者死守。そうと決まれば、前世の記憶など気にならなくなった。なぜ、前世の世界でこの世界のことが物語になっているのかはわからない。だけど、主人公が違う動きをすればきっと同じようにはならないはずだ。
「そういえば、クラス編入も特別クラスになっていたけど、何人くらいいるんだろう」
できたら同じ男爵家の女生徒がいれば、話しかけやすいかもしれない。なんなら平民でも、あまり気にならない。領地で視察の時や取引先相手などで話す機会はいくらでもあって慣れている。
明日からの学校生活に、少しの不安と期待が膨らむ。
こうして、ベル・リンドルは物語のヒロイン役を放棄することにしたのだった。