もしかしたら、物語の設定なんてあてにならないかもしれない。ベルだって、自分がヒロインらしいとは思わないのだから。そんな淡い期待が裏切られた瞬間だった。
彼女は間違いなく、本物の悪役令嬢だ。
やってしまった。ここに来たこと自体が間違いだった。自分に『その気』はないのだと説明して、どうにかして彼女の庇護下に入ろうなんて土台無理な話だった。
冷や汗はもはや尋常ではない。ぺたりと背中に濡れた布地が張り付き、ひやりとした感触に肩が震えたその時。離れた場所から放たれた怒号が青空広がる庭園に響き渡る。
「何をしている!」
驚いて振り向くと、背の高い美丈夫がこちらへ掛けてくるところだった。
「王太子殿下!」
どうしてここに、とベルは目を見開いた。令嬢達は一斉に席を立ち、それぞれカーテシーの姿勢を取る。レティシアだけはゆっくりと立ち上がり「あらあら」と呆れたように肩を竦めていた。
「弱者を守る騎士気取りですわね、クリストファー様。随分早いご到着だこと」
金色の髪が風に揺れ、空色の瞳は怒りに満ちていてベルを庇って目の前に立つ。ベルはますます血の気が引いた。
(あああ、王太子殿下が来てしまった……! 助かった、助かったんだけども……!)
クリストファー・ロードベルグ。彼こそがベルがこの場に来ることになった原因である。だというのにこれでは本末転倒で、ベルにとっては一番望ましくない展開になってしまった。
「答えろ、オースティン嬢。たったひとりに寄ってたかって、何をしているのかと言っているんだ」
「まあひどい。わたくし、なにもしておりませんのに」
「白々しい。この状況そのものがおかしいと言ってるんだ」
「高位貴族ばかりが集まる茶会に身を弁えず踏み込んできたのは、彼女の方ですわよ。まとわりつく羽虫は払って当然でしょう?」
レティシアは閉じていた扇を再び開いて口元を隠す。ぴりぴりと肌を刺すような緊張感の空気が続いたのは、数秒程度だっただろうか。王太子殿下の広い背中が軽く上下し、深いため息が落とされた。
「……もういい。ここは学院内だ、あまり身分をひけらかすな。リンドル嬢、おいで」
「えっ、あ、でも」
「いいから」
ベルにだけはやけに優しい声音を向ける。だが、これはわざとなのだとベルは知っている。それでもいきなり手を掴まれては拒否することもできず、ベルはクリストファーに引っ張られる形で庭園を後にした。
「なにを考えてるんだ君は!」
「ひゃっ!」
学舎の中に入り、庭が見えない場所まで来るとクリストファーはベルの両肩を掴む。
「レティシアの茶会に飛び込むなんて、一体何を考えている! あの場にいた令嬢はみんなレティシアの、オースティン家の息がかかった家門の者ばかりだった。下位貴族が無礼を働いたと言いがかりをつけられても、誰も助けてくれやしないんだぞ」
「なっ……なっ……だって! 言われたんです。オースティン公爵令嬢と話がしたければ、今日の茶会に行くしかないって」
いつもの外面、王子様然とした顔は鳴りを潜めて、クリストファーの表情は今にも舌打ちでもしそうなくらいに険しい。いや、した。ベルの耳に確かに聞こえた。
「わかってないのか、嵌められたんだ」
「え?」
「そもそも、高位貴族のご令嬢がわざわざ休日に学院の庭で茶会を開くことなどない。ベルが勝手にやって来たと理由をつけて、貶めるためだ」
呆然とクリストファーを見上げる。
確かに、言われてみればおかしなことだ。高位貴族のほとんどは、王都に邸宅を持っており馬車で通学している。寄宿舎は主に下位貴族で、地方が拠点で王都にタウンハウスも持っていない家の令息令嬢の為のもの。
休日に茶会をしたいなら、慣れた使用人がいる充実した環境の邸で開く。わざわざ学院で中庭を使うなら、事前に許可も必要なはずだ。
「……え? じゃあ、これも、嫌がらせの、ひとつだった?」
まったく、わかっていなかった。公爵令嬢と話す機会を得るならどうしたらいいかと教えてくれたのは伯爵令嬢だったが、悩んでいる時に彼女の方から声をかけてくれたのだ。
(まさかあれも仕込みってこと? 嫌がらせのためにそんなめんどくさいことする?)
ようやく理解したかと、目の前の美丈夫が顔をしかめてまた舌打ちをする。下品だ。全然王子様ではない、世間では文武両道、高潔で誠実な完全無欠の王太子と言われているのにこれでは詐欺だ。なのに、どうして悪役令嬢だけ本物なのか。
(無理! 絶対やだ! わたしに社交界なんて無理なんだって! ましてや、王太子妃なんて……!)
「だから嫌だって言ってるのにー!」
「うるさい。いいかげんにあきらめろ」
この男は、本当にヒーローなのか。『王太子クリストファー・ロードベルグ』に憧れるすべての女性たちに、この底意地の悪そうな笑みをぜひ暴露してやりたい。
如何にも高慢そうな笑みを浮かべる王太子を見上げ、ベルは心の中で地団駄を踏んだ。