その朽ち果てた洋館は、長い間、放置状態だった。龍や獅子の意匠があしらわれた重厚な鉄製の門扉は、蝶板が壊れて斜めに
門扉から建物へと続く広い前庭は、人の背丈程もある雑草に覆われ、建物に近付こうとする者を拒んでいた。何十年もの間、手入れもされず放置されてきたのは明らかだった。ただ、慎重に注視すれば、緩やかなS字を描く一本の細い道が見えてくる。誰かが雑草を押し倒しつつ、建物に近づいた跡だった。
建物の二階の窓に、微かな灯りが動く。それは、昼間でも薄暗い北側の廊下を歩くために、少女が手にした燭台の灯りだった。照明は電気が通っておらず、使えない。
真っ白な髪、色白な肌、純白のワンピース。上から下まで白一色で、遠目には
「あぁ、もうすぐ。もうすぐ繋がる。
繋がって、繋がって。
円になる。そして完成する」
謎めいた少女の独り言が、大理石の床と高い天井の間で反響する。
「円になる。そして完成する」
遅れて響いた自分の声に、少女はうっとりと、
※ ※ ※
その頃の北海道は、
仲間内から、
きっかけは、男の仕掛けた罠だった。
とてもシンプルな罠だった。上端が二股になった高さ1・5メートルの木の棒。尖った先端には魚が突き刺してある。それだけだった。しかし、その高さが巧妙だった。後ろ脚で立ち、木の棒に前足を掛けて上体を起こしただけでは、先端の魚に届かない。何とか魚を獲ろうとして、木の二股の部分に前足を掛けてよじ登りたくなる。すると、狭くなった二股の基部に足が挟まり、抜けなくなる、という寸法だ。
普通のキタキツネであれば、こんなシンプルな罠でも十分だった。しかし、霧子(としての自我に目覚める前のキタキツネ)にとって、この程度の罠など、造作もなかった。罠の先端の魚を鮮やかに獲り、その場で綺麗に食すと、人間が罠の成果を確認に来るのを待ち受けた。
――美味しかった。一言お礼を。
彼女の心境はそんな感じだった。罠を見回りに、距離十メートルほどのところまで男が近づいてきたところで、ペコリと頭を下げて、身を
男は、そんなキタキツネの様子に、最初はこの程度の罠など効かないぞと、小馬鹿にされたのかと感じた。
そこで、罠を工夫して、仕掛けを調整し、再び先端に魚を突き刺した。
しかし、翌朝、またしても罠にかからず、仕掛けの魚を食し、罠の足元にキタキツネがいた。
男は、「罠の名手」だと、仲間内から評されていた。そんな彼にとって、二度の失敗は、そのプライドを傷つけた。
「チロンヌプ!」
チロンヌプもケマコシネも、どちらも狐を指す言葉だ。ケマコシネが「足軽き者」という語源なのに対して、チロンヌプは「たくさん獲れる生き物」という語源。男は、なんとしてもこの狐を仕留めたかった。
しかし、その後何度繰り返そうとも、このキタキツネを捉えることはできなかった。
そして、男は諦めた。
いつものように、十メートル。これ以上近づこうとすると逃げてしまう、ぎりぎりの距離から、男はキタキツネに向かって、魚を放った。男とキタキツネの奇妙な友情がそこから始まった。
このキタキツネにとって、男は近くに居れば、安定した食事を恵んでくれる相手だった。なぜ、食事を提供してくれるのかは理解できなかったが、他の人間には感じたことの無い感情を抱くようになっていた。そして、男の狩りを手伝うようになった。
男にとっても、このキタキツネは特別な存在だった。狩りを手伝ってくれるために、以前にも増して仲間たちに持ち帰る収穫が増え、安定した。
そうして、キタキツネと男の間には、一種の共生関係が出来上がっていた。そのため、特にこの男の傍を離れなければならない積極的な理由もない、そんな状態だった。
その日までは。
静かに降り積もる雪原に、真っ赤な牡丹を散らしたように、男の血が広がっていた。
キタキツネはなすすべもなく、倒れた男の周囲をぐるぐると歩き回った。
それは、アマッポと呼ばれる、アイヌが狩猟に用いる自動発射式の弓矢による負傷だった。木の土台に引き絞った弓を設置し、引き金で固定して触り糸を張る。動物がこの触り糸に触れると、引き金が外れ、矢が飛ぶ。その矢じりには、
元来、晩春から秋に用いられる仕掛けだった。人の目で見て、気が付かないように設置するのは危険な仕掛けであり、冬に人からも視認できないように隠して設置されていたのはおかしい。そして、触り糸も、万一人が引っ掛けてしまっても、人程度の厚みの者が通った場合には、通り過ぎてから矢が放たれるように、触り糸を緩めに張るのが常だった。しかし、今回に限っては、触り糸がピンと張られていたために、男に矢が刺さってしまった。
どうみても、この男を殺すために仕掛けられたとしか思えない状況だった。
キタキツネにとっての殺生とは、己を生かすために行うものだった。食料として摂取するために殺す。自分が食料とならずに済むように、その危険を回避するために殺す。それだけだった。それ以外の理由で殺すことなど、考えもしなかった。
しかし、これまで共に歩んできたこの男は、明日、新たな族長になるはずだったこの男は、「妬み」という聞いたこともない感情によって、彼と族長候補を競いあっていた者に殺された。
――変なの! 人間って変な生き物ね!
それが、妖狐としての自我の芽生えだった。
男が殺されたことは、キタキツネとしての意識においても、妖狐としての意識においても、ショックだった。その感情は、「悲しい」というよりは、「寂しい」だった。
安定した暮らしが終わってしまったことが、「残念」でもあった。男を殺した相手に対しても、「不快感」を感じた。
だが、一番大きかったのは、「人間は、なんで人間を殺すんだろう?」という興味だった。
※ ※ ※
その答えには、まだ辿り着けていない。霧子はアクセルを吹かすとスピードを上げた。
公園で男が殺害された現場に居合わせたことがきっかけだろうか。公園で殺された男には感じなかった感情の洪水がどっと霧子に流れこんでくる。それほどまでに千年前の、あの男との思い出は、霧子にとって大切なものだった。
左手に千鳥ヶ淵を見ながら、トンネルに入る。皇居の西側を半周するように首都高速のトンネルを進み、霞が関ランプから地上に出る。出てすぐを左折。そして、もう一度左折して、外務省を「コの字」に回り込む。この辺りは、日本の中枢機能を担う省庁だらけだ。総務省を超え、昨日、今日と何度も足を運んできた警視庁本部庁舎に辿り着いた。
※ ※ ※
今回は、房咲子が居ない。防犯カメラを狐火で遮る技が使えないので、慎重に行動する必要がある。そこで、特に誰にも怪しまれることのなさそうな場所で(そして防犯カメラの死角になる場所で)、合同捜査本部に参加している捜査官と出くわすのを待つことにした。
三十分ほど待って現れたのは、昨日「三班の
「こんにちは!」
霧子が気さくに猪村に話しかけた。
「やぁ、お嬢さん、こんにちは」
既に霧子の幻術が効いている。猪村(階級は警部補らしい)は、特に怪しむ様子もなく、既知の仲であるかのように霧子に答えた。
「ね、ね。例の連続殺人事件について。教えて欲しいことがあるんですけどぉ」
「何かな?」
機密情報を聞き出そうというのに、日常会話のようなノリで質問する霧子も霧子だが、幻術のために、猪村の返事もまた、昨日の晩御飯について答えるような緊張感のないものだった。
「警察は、あの事件、どうして
「なんだ、そんな事か」
そんな事ではない筈だが、霧子の術中にある猪村には、その判断ができなくなっていた。
「まず、第一のヤマのガイシャと第二のヤマのガイシャが知人でね。容疑者の一人として名前が挙がっていたのが第二のガイシャってわけだ。そして、第二と第三のガイシャ同士も知人関係にあるとわかり、これは連続殺人事件の線が濃厚と判断されたのさ。今、同じように第三のヤマと第四のヤマのガイシャ同士も知人だった可能性が高いってことで捜査中なんだ。ほら、よく言うだろう? 二度までは偶然。三度目は必然って」
やはり、そうだった。第三の殺人事件の被害者、
奇妙な連続殺人の全容が少しずつ見えてきた。
「他に何か、聞きたいことは?」
一切の警戒心を見せず、そう逆に質問してくる猪村に霧子が驚く。
――なんか、私の幻術、以前にも増して、磨きがかかってない?
もし、万一、周囲で二人の会話を聞く者がいたとしても、同じく霧子の幻術の影響を受けるため、不審に思われる心配はない。それでもつい、周囲を見回してしまう霧子だった。
「じゃ、えっと。
霧子としては、どうしても気になるところだ。何しろ、本人なのだから。