「その、二十歳前後の若い女性って……たぶん、私」
「「えーーーーっ!!!!」」
一方、霧子は自分が目撃されていたという事実に驚き、呆然としたままだった。
今度はかなり抑えた声で、首を横に振りながら房咲子が言った。
「いや、いや、いや。事件に飛び込まんとあかん、とは言うたけど。自分で事件を起こすんは、反則やん。そんなん、謎解きも糞もないし。なぁんや、折角、おもろい事件が身近で起きとる
ロタが裏声で、まるでボイスチェンジャーを通したような声を作って言った。
「イツカハ、ヤルンジャナイカト
「やめい」
「ったーーい。房咲子ちゃん、チョップはなし! チョップはなし!」
「で? 霧ちゃん、そいつ食ったんか?」
「うん、食べたよ」
「味は?」
「なまら……」
「霧ちゃん、抜け駆け、ずっるーーい!」
房咲子や、ロタの質問に短文で答えながらも、霧子は昨晩の情景を思い出すことに集中していた。
――目撃者? あの公園に? 気配感じなかったのに、他にも人がいたってことよね……。まったく気が付かなかった……。
「つまり。霧ちゃんが犯人サンです、だよね? これって、瞬殺で事件解決ってこと?」
折角、本物の事件に首を突っ込めると、期待値が高かったために、犯人が霧子なのでは、謎解きも何もあったもんじゃない。房咲子もロタも、その落胆はひとしおだった。
「ん? あ、あぁ。そか。違う、違う。私、やってないよ?」
肝心の点を伝え忘れていたことに気が付いて、霧子は慌てて否定した。
霧子、房咲子、ロタの三人は千年を超えて生きてきた妖狐だ。当然、彼女たちは人とは異なる倫理観を持っている。
気まぐれに人を
ミステリー好きが高じて、探偵ごっこに興じたいというのも、単に刺激が欲しい、謎解きがしたいというに過ぎず、事件を解決して社会に貢献したいとか、世の正義を守りたいなどと使命感に駆られているわけではなかった。
――「うーん。ごめん、無理かな」
昨晩、霧子が助けを求める男に言い放った言葉にしても、そうだった。元々、彼女には男を助ける義理は無く、その上、彼女をもってしても助けられない状況だった。手遅れだったのだ。だから、本心から「無理」だと言った。それでも、自分を頼られて、それに応えられない事に対し「ごめん」と言ったのは、むしろ霧子の優しさの表れとも言えた。
――したっけぇ、あなたの死を無駄にはせんから。せめて美味しくいただいちゃいましょう。
彼女たちは元が雑食の狐なので、人と同じように普通に飲んだり食べたりする。しかし、妖狐の本来の食事は、人の恐怖心だ。霧子は、男の様子をつぶさに観察しながら、彼の
ただ、あの場に霧子が居合わせたのは、まったくの偶然だった。房咲子とロタを差し置いて、一人抜け駆けしたというわけではない。でも、結果的に「格別な恐怖心」を独り占めしてしまったことには違いない。それで、昨晩の事件を二人に打ち明けることを
――だけど、目撃者が居て、私が事件に関与したんじゃないかと疑われてるんじゃね……
「二十歳前後の若い女性」というだけで、それ以上の詳細な情報が無いのであれば、いきなり霧子が特定されたり、容疑が及んだりすることはないだろう。しかし、万一にも警察の捜査の網に引っかかり、周囲を嗅ぎ回られたりすると、折角手に入れた日常生活が脅かされる危険がある。そうなると、話は変わってくる。
「おっと、そろそろ次の講義やね」
「次は三人一緒だね。急ごう。霧ちゃん?」
「うん」
まだ、何か引っかかる事がある。そう感じつつも、それが何かは分からず、いったん思索にふけるのを中断し、霧子は房咲子とロタを追って、喫茶室を後にした。
※ ※ ※
「ん、ん。公園を設置する目的はですね。ん、ん。良好な都市景観の形成、都市環境の改善、都市の防災性の向上、生物多様性の確保、レクリエーション空間の提供、豊かなコミュニティ形成のための空間の提供。と、これらの目的があるわけです」
教養棟一号館にある、古い階段教室の半円状のすり鉢の底では、社会科学Iの講義が行われていた。講師が左手にマイクを持ち、右手を大きく突き立てて指を折りながら説明している。必須科目なので、そこそこ学生で埋まった教室の最後尾、すり鉢状の教室全体が見渡せる場所に、霧子たち三人は座っていた。
「サツジンは、公園の設置目的には無いネ」
「当り前やん」
房咲子とロタが小声で雑談を交わす。
当たり前だ。そんな行為が公園の設置目的に含まれているわけがない。誰がどんな目的であの男を殺害したのかは分からないが、
※ ※ ※
三人がシェアしている部屋は、街の外れにある
映画館もこの部屋も、オーナーはロタである。上映作品は、ホラー、スプラッター、サスペンスなどの恐怖映画を隔月でローテーションして流していた。今どき珍しいワンコインという、破格の価格設定の甲斐もあり、常に二、三人は観客が入っている。当然、採算は度外視だが、彼女たちは金銭には不自由していないので問題ない。困っていたのは食事だった。その点、上映中に映画館の直上にあるこの部屋に居るだけで、得がたい人間の恐怖心をお手軽に摂取出来るというわけだった。
「さぁて。おさらいすんで。昨晩、あの公園で男が何者かに刺殺された。まぁ、自殺という可能性もあるっちゃあんねんけど。一応、他殺って事にしとこか」
房咲子がエスプレッソをずずっとすする。映画館の一階ロビーに入っているカフェで買ったものだ。テイスティングするかのように、口の中で転がし、鼻息に乗せて濃密なコーヒーの香りを吹き出す。
ロタがソファに深く身を預けながら、カシュっと缶ビールの栓をあけた。現在の彼女の設定は十九。見た目に至っては高校生か、中学生といった感じだが、実年齢は千歳を超えている。なんの問題もない。
「うん。他殺だと思うよ。あの人、私に『助けてくれ』って言ってたから。自殺ならそんな事言わないよね」
霧子がそう言うと、房咲子とロタがうんうんと頷いた。
「念の為、もう一度確認するけど、霧ちゃんはやってないのよね?」
「イツカハ……」
「もう、えぇって」
「ったーーい! チョップ禁止ー! まだ言ってなーい!」
房咲子のチョップを頭頂部に食らって、ロタは右手の缶ビールをかばいつつ、左手で頭を抱え込んだ。割と痛かったのだろう。普段は隠しているフェネックの大きな
「うん、やってない。変な
「周りに誰かおった?」
「それがね。音も匂いもなくて、誰も居なかったの。男がベンチで死にかけてただけ」
霧子たちは、人の姿で暮らしてはいるが、元は狐だ。その嗅覚や聴覚は人のそれよりも遥かに鋭敏だ。野生の狐は、冬場、雪の下でかすかにうごめく野ネズミの気配を聴力だけで探し当て、正確に捕らえる事ができる。そんな聴力を持つ霧子にすら知覚出来なかったとは、相当なものである。
「でも、目撃者はいた」
「うん。そうなんだよね……」
その時だった。
「「「きたーーーーっ!」」」
恐らく、下の映画館のスクリーンに映し出されているのは、売れっ子作家に扮するジェームズ・カーンの両足をキャシー・ベイツが大きな金槌で粉砕するシーンだ。
「これよ、これ」
「いただきまぁす」
「ボーノ……」
三人共、恍惚とした表情を浮かべている。
「やっぱり、一番怖いのは、妖怪でもモンスターでも悪魔でもなく、人間よね」
「せやね。これ、ウチらが見ても怖いもんな」
「今日のお客さん、反応良いデス」
※ ※ ※
「で、何の話してたんだっけ?」
「
その時、霧子は、自分が何に引っかかっていたのか、閃いた。
「私、思ったんだけど、その目撃者ってのが、犯人なんじゃないかな?」
房咲子がパンっと手を叩き、ロタがパチンと指を鳴らした。
「誰も居ないって思ってた。目撃者が居たとは今でも信じられない。でも、犯人が近づく私に気が付いて、身を潜めてたってことなら、別」
うん、うんと相槌を打つ房咲子とロタ。続けて霧子が話す。
「性別か年齢か、その両方か。『二十歳前後の女性』ってのが、犯人の特徴とかけ離れているんだと思う。だから、利用できるって思って、目撃情報のタレコミをしたんじゃないかな」
「ってことは、犯人は、男性か……」と房咲子。
「女性だけど、もっと若いか、歳をとってるか……」とロタ。
「……ってことだと思う」と霧子。
後に続けて房咲子が言った。
「そして、警察はそうとは知らず、まんまと犯人に騙されて、二十歳前後の女性が事件に関わる重要人物だと思って探しとるんやね」
「……ってことになるよね」
ロタが霧子と房咲子に言った。
「ねぇ。この
警察をすら出し抜いて、真っ先に自分たちで事件を解決できる、またとない機会。そんな期待感に満ちたキラキラが三人の目の中で踊っていた。