静まり返った深夜の公園に二つの人影があった。一方は仕立ての良いビジネススーツに身を包んだ中年サラリーマンだった。浅くベンチに腰掛けて、膝に肘を付き、固く組んだ拳に額を乗せて深く頭を下げていた。背中を小刻みに振るわせ、時折、くぐもった
もし、ジョギングなどで傍を通り過ぎる者がいれば、深酒が過ぎた酔っ払いと、それを介抱している知人女性というようにも、見えたかもしれない。しかし、そんな通行人はどこにもいなかった。そして、実態はそうではなかった。男が深酒による酩酊状態にあり、判断能力を著しく欠いていたのは確かだった。だが、男が背中を小刻みに震わせていたのは、過剰摂取したアルコールによる不快感からではなく、腹部に深々と突き刺さった鋭利なナイフによる苦痛からだった。また、男が地面に垂れ流していたものは、吐瀉物ではなく、腹部からの大量の血だった。
早鐘を打つ脈に呼応して、男は鈍痛と激痛を交互に味わっていた。鈍い痛みに歯を食いしばり、激しい痛みに
「た、す……てくれ……」
男はそばに立つ女に、絞り出すようにして、ようやくそれだけ言った。茂みで鳴く虫たちの声にも負ける弱々しい声だった。
「うーん。ごめん、無理かな」
その場の状況には到底似つかわしいとは思えない軽快な調子で女がそう答えた。しかし、その言葉を聞く前に、男は命の糸を手放してしまった。
※ ※ ※
すっかり葉の落ちたイチョウの枝が、今にも雪の降りだしそうな空に手を広げて震えていた。キャンパスに敷き詰められたレンガは、すっかり落ち葉に隠れてしまって見えない。学生がそぞろ歩く、校舎と校舎を繋ぐ通り道だけが獣道さながら、そこだけがレンガ造りの道かのように取り残されて、それ以外は一面、黄色の絨毯だった。
――「黄色いレンガ道」の逆ね。この道じゃ、エメラルド・シティには行けそうにないなぁ。
キツネ色にこんがりと焼けた食パンを思わせるミドルボブの髪とダークゴールドの瞳、タートルネックの白いニットに包まれた女の子が窓の中からぼんやりと霧子を見返していた。霧子があくびをすると、窓の中の女の子もけだるげに大きく口を開けるのだった。
「ワォ。ここの眺めはステキ景色デス。
黄色い絨毯を二分して伸びる一本のレンガ道。霧子と似たような想像をしたとみえる学友のロタ・
ロタは人目を惹く真珠色の光沢を放つロングヘアに漆黒の瞳。大学生だというのに、高校生どころか中学生に見間違えられてもおかしくない程に華奢で小柄な体型だ。ゆったりとしたゴスロリ調のドレスと相まって、まるでお人形のようだった。
一方、房咲子は黒地に銀のメッシュを散らしたショートヘア。べっこうの細いフレームの眼鏡の奥からぎらりと鋭い眼光を放つ。背の高さに加え、大きな胸が印象的な、まるでファッションモデルのようなスタイルをしている。
ツイード地のコートを脱ぎながら、房咲子が関西弁で切り込んだ。
「それ、『オズの魔法使い』……やのぉて、エルトン・ジョンのやんな?」
どっちだって良さそうなものだ。エルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」にしても、『オズの魔法使い』に由来する曲だったはず。しかし、房咲子は疑問には細部までこだわり、詮索の手を緩めない性分だった。
霧子、房咲子、ロタの三人は高校の頃からの親友であり、同じ大学に通っている今は、ルームシェアをして同居し、暇さえあればこうして連れ立って行動していた。
三人には共通点があった。
一つは三人ともミステリーが大好きなこと。そして、もう一つの共通点。それは、彼女たちが、千年以上の時を生きてきた妖狐だということ。
一括りに妖狐と言っても、元のキツネの種が異なる。霧子がキタキツネ。房咲子がホンドギツネ。どちらもネコ
千年以上も生きていると、人生(もとい、
そして、いつか、本物の難事件、怪事件を解決してみたいと思っていた。
「ハーイ、ここでロタちゃんからクゥィズ!」
唐突な話題転換も唐突なクイズ進行も、ロタのお家芸のようなものだ。霧子も房咲子も長い付き合いで、この程度では動じない。
「ズバリ! 私たちが名探偵になるのに、必要な物はなんでしょう!」
「うーん。推理力?」と霧子。
「そんなん、簡単や。殺人事件やん」と事もなげに房咲子。そして、
「ていうか、あんた『ズバリ』なんて、どこで覚えたん?」と付け加えるのも忘れない。
「オノマトゥピアには、ジッシンありマース!」
そう言いながら、ロタは左足を後ろへ引いて腰を落とすと、一気に
「ズバッ!」
ロタは、これが「ズバリ」の語源だと言いたいらしい。お人形のような見た目で居合抜きを演じる違和感にはお構いなしにドヤ顔である。
「はい、はい。ええから。で、正解は?」
房咲子が話題を引き戻した。
「名探偵に必要な物。それはインディビジアリティ。こせいデース!」
「「個性?」」
意外な答えに霧子と房咲子が声を揃えて聞き返した。
「イエス。キャラクターと言ってもいいデス。『ズノウはコドモ、カラダはオトナ』とか……」
「わざとやろ。ツッコまへんで」
「それと、もう一つ。キメゼリフも大事デース! ジュッちゃんの何掛けて?」
「決め台詞やのに、何故に疑問形?」
「はい、はい。したって。私らにも妖狐っていう、強い個性があるでない?」
霧子が北海道なまりでそう言うと、ロタは「ノン、ノン」と人差し指を左右に振って否定した。
「ヴァン・ダインの二十則ありマース」
ヴァン・ダインの二十則とは、作家ヴァン・ダインが推理小説を書く際に守るべきだと、指標を示したもので、「ノックスの十戒」と並びミステリークラスタにおいては、割と有名な話だ。そこには、
「占いや心霊術などのオカルトを推理に用いるのは宜しくない。捜査はあくまで合理的かつ、科学的であること」
といった記載がある。
すかさず房咲子が反論する。
「いや、それは小説の中の話や。ウチらは別に妖術つこたかてえぇやん?」
彼女たちはミステリーを読むだけでは飽き足らず、自ら探偵となる機会が訪れないものかと思っているのだった。
霧子が三人の間で指をくるっと回す。
「ただ、妖術といってもね……。こうして人の姿になれるのと」
そして自分を指差して
「幻術で惑わすのと……」
続いて房咲子を指差して
「狐火を出すのと……」
霧子がそこまで言うと、その後をロタが引き取った。
「ロタちゃんは勘が鋭いデース。犯人がピタリと当たりマース!」
と言った。
「それ、謎解きになってへんやん。あんた、自分でヴァン・ダインとか言うといて……」
「じゃあ、脅して自白させマース! エキノコックスで……」
「やめるべ」「やめときぃ」
ロタにフル突っ込みする霧子と房咲子だった。
「やっぱ、待っとるだけやったらアカンねん。名探偵に必要なんは、殺人事件や」
「房咲子ちゃん?」
戸惑う霧子に構わず、房咲子が続けた。
「せやけど、気長に待っとってもあかん。こっちから事件に飛び込まんと」
「どうやって?」
「これや。最近、この近辺で立て続けに起きとる連続殺人事件。昨晩、三人目の犠牲者が出たって、ほら、ネットニュースになっとる」
そう言うと、房咲子はスマホの画面を二人に見せた。
「連続殺人事件」。ミステリーの王道テンプレの一つである。
「ほんまに、連続殺人なんかは知らんで。一件目の殺人事件でこれが連続殺人事件の最初の奴やなんて、わかるわけないし、二件目の殺人事件でも、『なんや、最近こういうの続くなぁ、物騒やな』ってなるだけやん? 昨日の三件目にしても、確証はないみたいやし。比較的近い
「せやけど、昨日の三件目は特別。なんと、目撃情報があるらしい。二十歳前後の若い女性が被害者のそばに立ってるんを見たっちゅう人がおるんやて」
「え?」
霧子が驚きの声をあげた。
「ん? 霧ちゃん?」
「霧ちゃん、どーシマシマか? ふぇぇ、噛みまみた」
余りの驚きに呆然と空を見つめる霧子の顔を、房咲子は上から、ロタは下から覗き込む。
「その、二十歳前後の若い女性って……たぶん、私」
「「えーーーーっ!!!!」」