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グッバイ、イエロー・ブリック・ロード -Goodbye Yellow Brick Road- ②

「――えっと、『一回分の量を付属のスプーンで量って哺乳瓶に入れ、メモリまで入れたお湯でよく溶かしたあと、38℃程度まで冷まします』」

「えぇ? 38℃ってどのくらいだよ、そんなのどうやって測りゃいいんだ」

「たぶんシャワーの温度がちょうどそのくらいだよ、体温より少し温かいくらいだろ。で、『ミルクが気管に入らないよう頭を少し上に向かせ、哺乳瓶は四十五度くらいの角度で』――」

「待て待て待て。まだ冷ましてる……って、こんなのいつ冷めるんだよ」

「まだだいぶ熱い? それなら流水で――」

「そっか。くそ、俺なんかいっぱいいっぱいで頭働いてないな」

 普段、散らかし魔のテディが当てにできず、耐えられなくなった頃に部屋の整理整頓と掃除をする以外はまったく家事をしたがらないルカが、キッチンに立っておろおろしている様子はなかなか見物だった。

 手の甲にミルクを垂らして「こんなもんかな」と小さな哺乳瓶を片手に仔猫の箱の傍らに行くと、腰を落ち着け箱から一匹出して口許にニプルを近づける。すると仔猫はばたばたと前脚をもがくように動かしながらそれに齧りつき、ちゅっちゅっと飲み始めた。

「飲んだ……!」

 思わずふたりして笑顔で顔を見合わせる。仔猫は哺乳瓶を持っているルカの手に小さな前脚をしっかり伸ばし、ものすごい勢いでミルクを飲んだ。

 飲み終わってお腹がぽっこりと出ているのを見て、テディは手にしていた冊子をまた読み始めた。

「あ、『赤ちゃん猫は自分で排泄ができないので、ぬるま湯で軽く絞ったガーゼや脱脂綿などで刺激し、排泄を促してあげる必要が』――」

「ああ、そっちはおまえ頼む。俺もう一匹のほうにミルクやらなきゃ」

「わかった。ふふっ……ルカ、なんかおかあさんみたい」

「よせよ、じゃあおまえはおとうさんかよ? なんでベッドでの役割と逆になってんだ」

「それは関係ないだろ。なに云ってんだよもう」

 あまり元気のなかったほうの仔猫も、なんとかニプルに吸いつかせるとちゃんとミルクを飲み始めた。先にやった元気なほうほどたくさんは飲まなかったが、これでもう死んでしまったりすることはないだろうと、ルカはほっとした。

 テディが排泄のほうの世話をしているあいだに、ルカは箱の中に古雑誌とタオルを敷いた。そして、もっと暖かいなにかがないかと部屋のなかを見まわし、前に洗濯して縮んでしまったセーターをみつけ、それを隅に入れた。

「いい寝床になったじゃない。あったかそう」

 テディが仔猫たちを箱の中に戻すと、ルカはやれやれと自分の手を見た。

「ひっかき傷だらけだ。こんなに小さくてもやっぱり猫なんだな」

 仔猫たちがセーターに寄り添い眠そうな顔をしているのを見て、ルカは袖の部分をふわりと掛けてやった。仔猫のほうも母猫の尻尾にでも包まれているつもりなのか、こっくりこっくりと気持ちよさそうに船を漕ぎ始める。

「俺まで眠くなってきた。昨夜はほとんど寝てないからな……」

「……仔猫は俺がみてるから、ルカは寝ればいいよ」

 心苦しいのかテディが苦笑を浮かべつつそう云うと、ルカは「ひとりじゃ寒いんだよ」と、忌々しげにひんやりとした壁際のベッドを睨んだ。

 窓の下に備え付けてあるオイルヒーターは、古い所為かちっとも利かなかった。部屋にはTVもなく、職探しに出ないのならば他にやるべきこともない。

 ふたりは互いを暖めあうためにベッドに入り、一緒にブランケットに包まった。





 仔猫がミャーミャーと鳴く声で、もうそんなに時間が経ったのかとルカは時計を見た。

 自分も少しは眠ったが、先に寝息をたて始めたのはテディのほうだった。今も傍らで眠っているその横顔を見てルカはふっと笑みを溢すと、見ていた求人情報の載った新聞をくるくると丸め、屑籠に突っこんだ。

 ミルクを飲んだあと、しばらくもぞもぞと動きまわっていた仔猫たちを、テディが買ってきた小さなネズミのぬいぐるみでじゃれさせる。一度ノミ取り用のコームで梳かしたので、レッドタビーの毛はまるでタンポポの綿毛のようにふわふわしていた。手を傷だらけにしてくれながら、偶に自分を見上げてミャーと鳴く蒼い瞳がたまらなく愛おしい。

 ルカは、情が移り始めている自分に気づいた――これはまずい。早めになんとかしたほうがよさそうだと考えながら、ちらりとベッドを見やる。ベッドの上で、テディはうん……と寝返りをうち、薄目を開けてこっちを見た。

「……ごめん、俺も寝ちゃった。もうミルクやったの?」

 目を擦りながら、すぐにそう尋ねたテディに、ルカは微苦笑する。

「ああ、しっかり飲んで少し遊んでたところだよ。もうそろそろまた寝るんじゃないかな」

 眠そうな顔になってきた仔猫たちを箱に戻し、ルカは云った。

「なんか、野良猫とかを保護するような団体ってあるよな。そういうところを探して連絡して、引き取ってもらおうと思うんだ」

 テディは半身を起こして坐り、ブランケットのなかで膝を立てた。

「月曜日に動物病院に行けば、そういうことも聞けると思ってたんだけど……」

「待ってられないよ、もう。早いほうがいい。さっきの冊子とかになにか載ってないのか?」

 テディは何故か少し不満そうにテーブルの上を指さした。ルカが立ってそれを手に取り、ぱらぱらと捲ると最後のほうのページに動物愛護団体や、個人のボランティアの連絡先などがいくつか載っていた。

 最初にミルクを作るとき、ずっとこれを手に熱心に読んでいたテディが気づいていないはずがなかった。やっぱりなと溜息をつき、ルカはここからそう遠くない住所をみつけ、そこに連絡しようと決めた。

「電話かけてくる」

「……仔猫、どこかへやっちゃうの?」

 本当は飼いたかったのだろう、少し寂しそうに云うテディを見る。

「そうだよ。だって、飼えないよ。俺たち仕事をみつけなくちゃいけないし、この部屋にずっとどっちかがいるわけじゃないだろ。それに、こんな陽あたりの悪い狭い部屋に閉じこめておくなんて、猫だって嫌がるさ」

「そう……だよね」

 箱の中で小さな丸い毛玉がくー、すーと、微かに膨らんだり萎んだりするのを眺めるテディを見て、ルカは折り目をつけたその冊子のページをもう一度開いた。

「聖アンナ教会……ダニューブ川を渡ってすぐのところらしいから、うまくすれば今日中にでも連れていけるよ。こんなふうに冊子に載せてるくらいだ、きっと他にも猫がいっぱいいるよ。こいつらの親代わりになってくれる猫だってきっとな」

 それを聞いて納得したのか、テディは頷き、電話をかけに行くルカを笑って見送った。




       * * *




 狭い部屋の片隅、壁際に置かれたスチールパイプのベッドはところどころ塗装が剥がれ、錆びていた。どこかのボルトが緩んでいるらしく、テディを組み伏せたルカが動くたびにベッドはぎしぎしと軋み、壁に当たって音をたてた。

 徐々にピッチをあげながら激しくなっていた音は、やがてテディが狂おしげにルカの名前を連呼すると、ぴたりと止んだ。長めに伸ばした髪を振り乱したルカが、くずおれるようにテディに覆いかぶさる。名残のように、ぎっ、とベッドが音をたて、僅かに揺れた。

 静まりかえった部屋のなか、かわりに耳を擽るのは互いの荒い息遣いに変わり、ふたりは熱を保とうとするかのようにぴたりと肌を合わせたまま、じっとブランケットに包まっていた。



 ――まったく利かないオイルヒーターは電気を喰うだけ無駄な気がして、スイッチはオフにしたままだった。鼻先に感じる部屋の空気は冷たく、ベッドから出たくはなかったが、ずっと裸のままこうしているわけにもいかない。ふたりは意を決したようにブランケットから這い出ると、厚手のスウェットスーツをすっぽりと着て靴下も穿き、またベッドに戻った。

「うぅ、寒ぃー」

「アラームかけた?」

「ああ、ちゃんとかけてある。でもアラームが鳴る前にあのチビらの声で目が覚めるよきっと。四時間おきくらいにミルクなんだろ?」

「うん、そう書いてあった……ちゃんと起きられる?」

「大丈夫だろ」

 電話にでたエメシェというシスターには明日の朝、ミサの準備があるので九時より早い時間に来てほしいと云われていた。日中、ミルクを飲んでは少し遊んで眠るのを繰り返した仔猫たちは、今またセーターに包まれ、箱の中でおとなしく眠っている。

 すっかり夜も更けたこの時間、窓の下辺りからひんやりとした空気が床を這うように広がり、部屋の温度はますます下がっていた。ふたりは狭いベッドのなか、互いに背中に手をまわしてぴたりと躰を寄せ合い、何度もキスをしてそのまま眠りについた。





 ふと目が覚めたのは何故だったのか――アラームの音は聞こえず、ミルクをやるために起きなくては、という意識があったから自然に目が覚めたのかと、ルカは思った。が、時計を見るとアラームをセットした時刻をもう二時間ほども過ぎていて、カーテンの隙間からはうっすらと朝焼けの色が滲んでいた。

 ミャ、ミャ、とか細く鳴く声が耳に届く。ぐっすり眠っていた所為で音に気づかなかったのかなと思いながらルカは、テディを起こさないようにそっとベッドから出た。冷え切った部屋の空気にぶるっと震え、よしよし今ミルクを作ってやるからなと椅子にかけてあったカーディガンを羽織り、カーテンを半分開ける。

 ――テーブルの下辺りに見えたそれを、初めはまたテディの脱ぎっぱなしの靴下かと思った。だが眠い目を擦り、それがなんなのかに気づくと、ルカはまさかという思いでそこにしゃがみこんだ。

 恐る恐る手を伸ばして触れ、愕然とする。

「そんな……」

 仔猫は既に冷たく、硬くなっていた。

 なんでこんなところに、と箱のほうを振り返る。すると、もう一匹がセーターに懸命にしがみつくようにして前脚を伸ばしているのが見えた。だがその仔猫のほうは鳴き声も小さく、箱から出たりはしそうになかった。

 ルカはゆるゆると頭を振った――死んでしまっているのは、元気に鳴き、動き、たくさんミルクを飲んでいたほうの仔猫だった。

 セーターをよじ登って、箱から転がり出てしまったのだろう。しかし戻ることなど、もちろんできるはずもない。そしてそのまま、寒い部屋の床の上で体温が下がり、弱って――

「ルカ、おはよ……」

 テディが目を覚まし、ブランケットに包まったままルカを見た。が、ルカはがっくりと肩を落としたまま、なにも云えなかった。

「……どうしたの」

 なにか察したのか、テディがベッドから出てルカに近づいた。

 ルカの視線の先の動かなくなった仔猫を見て、テディはなにが起こったのか気づき、息を呑んだ。がくりと膝をつき、微かに震える手で仔猫の躰をそっと抱きあげると、その変わり果てた感触に茫然とする。

「――なんで?」

 そう声にだした唇が震え、見開いた大きな瞳には涙が溢れた。ルカはやりきれない表情で首を振った。

「俺が悪いんだ……俺がセーターなんか入れたから、箱から出てしまったんだ。いや、まだこんなに小さいのに目を離して寝るのも間違いだった。俺の所為だ……」

「ルカの所為じゃないよ、そんなこと云うなら俺だって……」

 テディはそうしていれば息を吹き返すとでも思っているかのように、冷たく硬い躰を撫でている。その手に、ぽたりと涙の粒が落ちた。ルカはそれをじっと見つめ、仔猫を包んでいるその手に自分の手を重ねた。

「飼えないんだからって思ってつけなかったけど……、こんなことなら名前、ちゃんとつけてやればよかった」

「今からでもいいじゃない。つけてあげようよ……雄か雌かはわかんないけど」

 テディはずっと仔猫を撫で続けている。ルカはか細い声で鳴いている箱の中の仔猫を見て、「ああ、あいつにミルクやらないと……」と呟いて立ちあがった。

「……ドロシー」

 テディが口にした名前を聞いて、ルカは振り返って頷いた。

「ドロシーか。うん、いい名前だな……」

 気づけば外はもうすっかり明るくなっていた。テディは涙をいっぱいに溜めた目で窓のほうを見やり――ふと、なにかに驚いたように瞬きをした。

 眩しい朝陽のなかに、虹を見たような気がしたのだ。

 涙がまた頬を伝って落ちていき、テディは小声で呟いた。

「ごめんよドロシー。……さよなら」

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