その日は朝から降り続ける雨で街も気分も陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
高層ビルに囲まれた通りは雑然としていて、ビルの合間を縫って飛び、道行く人々にニュース映像を見せる飛行船も今日は飛んでいない。街を彩るホロサイネージも雨でわずかに色褪せているように見える、そんな雨の街を、一人の男が傘を差して足早に歩いていた。
冷たい雨にジャケットを濡らしながらも家路を急ぐ男。しかし、その足はまっすぐ自宅に向かわず、別の場所へと向いていた。
帰ったらまずはシャワーだ、傘を差していたのに朝からの雨で服が濡れたから洗濯もしなければいけない、そう考えながらも男は目的の場所を目指して早足で歩く。
この角を曲がればすぐだ、と考えると雨と、雨で濡れた服で陰鬱になっていた気分が何故か晴れていく。
男の考え通り、角を曲がると目の前に目的の店が現れた。
ネオンやホロサイネージ、そしてそれらから流れるコマーシャルの音声が雑然と混ざったこの街で、それらに負けず存在感を放つ一軒の店。
確かに周囲の店や広告と同じようにこの店もネオンやホロサイネージの看板が輝いている。周りの店と同じように佇んでいるのだからそれらに溶け込んでしまいそうなのに、この店は確かに存在感を放っていた。
今ではほとんど見られない
しかし、男はこの店の看板に使われているこの筆文字が好きだった。確かにこういった文字に慣れないと少し戸惑うことはあるが、懐古主義者ではない男でもわかる。この店は、この文字が一番似合う、と。
ただでさえ早足だった男の足が、店を視認した瞬間さらに早くなる。
店から漂う何とも言えない香りが男の鼻腔をくすぐり、男の腹をきゅる、と鳴らす。
男が帰宅ルートから外れてこの店に向かっていたのは帰宅する前にこの店で腹ごしらえしたいと思っていたからだ。
店にたどり着き、ホロサイネージでできた光の暖簾をくぐる。ゆらり、と光の暖簾が揺れ、店内の様子が露になる。
カウンター席だけのその店は、一見、ごく普通の料理屋だった。カウンターの奥では数台のフードプリンタが料理を出力しているし、カウンター席にいる他の客が食べているそれもプリントフード。
何の変哲もないプリントフードなら他にも料理屋はたくさんあるし、男の家にもフードプリンタはあったが、男にはこの店でないといけない理由があった。
店の席はほとんど埋まっていたが、幸いにも空いている席があり、男はその席に腰かける。
「お、いらっしゃい! なんにしましょう?」
店主が明るい声で男を歓迎し、男も店主の声が変わりないことに安堵しながら
「
その瞬間、店主が苦笑した。
「二つで十分ですよ」
「
「二つで充分ですよ!」
そこまで言ってから、店主は苦笑をにやりとした笑みに変えた。
「あんたも好きねえ」
「元はと言えばあんたの映画好きからできたメニューだろうが」
男はこの注文がとある映画をネタにしたものであることは知らなかった。そんな映画が存在することも知らなかったし、このやり取りが何を意味するかも分からない。
しかし、この注文をすると店主は決まって喜んでくれるし出される料理も——。
「あいよ」
店主がフードプリンタから取り出した料理に何かを乗せ、そこにボトルに入っていた液体をかけ、男の前に置く。
それはプラスチックの丼に出力された白米が盛られ、その上に黒色の固形物が
しかし、男は丼の中身を見た瞬間、嬉しそうにフォークを手に取った。
見た目だけではお世辞にもおいしそうには見えないこの丼だが、そこから漂う香りは明らかに「おいしいよ」と囁きかけてくる。
黒い物体をフォークで突き刺し、男はそれを口に運んだ。
「ん~~~~!!」
一口食べた瞬間、男が昇天しそうな表情で天を仰ぐ。
「これだよこれ! このミソカツドンのミソがたまんねえんだよ!」
「そう言って貰えて嬉しいよ。頑張って開発した甲斐があった」
男の相変わらずの反応に、店主の笑顔も明るい。
この男、いや、この店の常連の男は店に来るたび、これを注文する。はじめは別のものを食べていたが、「合言葉で食べられる裏メニューがある」と知り、合言葉を突き止め、注文して出されたこの料理に魅了されてしまった。つまり、合言葉を知っている常連だけが食べられる
と言っても、このメニューだけが特別においしいわけではない。
その証拠に、男の両隣に座る客もうんうんと頷きながらそれぞれの料理を食べている。
「このラーメンってやつもたまらないんだよな。家のプリンタじゃこの味は出せん」
「そうそう、この店の料理、どう見てもプリントフードなのに味が再現できないんだよな」
だからこそ毎日のようにこの店に通いたくなるし、いくら食べても飽きない、と他の常連たちも口々に言う。
「一体どうやったらこんな味が出せるんだ?」
ミソカツドンを一気に掻き込んだ男がおかわりを要求しながら店主に尋ねる。
「冗談抜きで
店主が笑いながら同じ丼を男に差し出す。
「別に特別なことはしてないよ。調味用添加物の組み合わせで故郷の味を再現してるだけだ」
別に企業秘密でもなんでもないよとばかりに店主が種を明かすが、常連たちは「そんなことあるか」と首を横に振る。
「絶対なんかやってるだろ。家でも試してみたがクソ不味いだけだったぞ」
そうだそうだと常連たちが首を縦に振る。
ふふ、と店主は再び笑う。
「そりゃあ、あんたらは『本物の味』を知らないからな。本物を知らない限り、これは真似できないよ」
——そう、それがこの料理屋、「食事処 げん」の魅力。
出される料理はありふれたプリントフード、しかしその味は誰にも再現できない「本物」の味。
今の世の中、食事とは生きるために必要な行動であり、そこに娯楽の要素はほとんどない。食事を生命維持と割り切っている人間はチューブに入った栄養ペーストで済ませるし、それが味気ないと思った人間はフードプリンタでかつての料理を模したものを作る。しかし、その味はかつてのそれからかけ離れた、均一のものへと化していた。少なくとも店主はそう感じていた。
だからこそ店主は研究を重ね、かつての料理の味を再現し、「食事処 げん」を営業している。
少しでも多くの人間にかつての味を楽しんでもらうため。料理というものが生命維持だけでなく、人々の心を癒すものであることを思い出してもらうため。
「食事処 げん」は、そんな思いが詰まった店だった。
そして、その料理に魅了された人々が無機物に囲まれ疲れた日々から逃れるために足を運ぶ。
他では嗅げない料理の匂いと、常連客の温かさと、店主の心づかいが満ち溢れる店。
それが店主こと「