咄嗟にしゃがみ込み、先輩の身体を支える。触れた指先はあたたかい室内とは対照的に冷え切っていた。
「どうしたんすか、大丈夫ですか!」
必死の呼びかけも、先輩がぎゅっと目を閉じているから聞こえているのかもわからない。唇も紫色になり、どんどん顔が青くなっていることに気付いた。
こんなのどうすればいいんだ! せっかく保健室にいるのに、養護教諭が戻って来る気配はない。俺の対処が遅れたせいで、取り返しのつかないことになったら……!
過去の記憶がフラッシュバックし、余計パニックに陥った。すぐに誰か、いや救急車を呼ぼう!
「ああもう! スマホ教室だし……この部屋に電話とかあったか?」
「……から」
ジャージのポケットは空だった。悪態をついて電話を探そうとするが、先輩をこのまま床に転がしておくわけにもいかないと纏まらない思考で迷っていたとき。下から先輩の声が聞こえた。
「だい、じょぶ、だから……横に、ならせてくれ」
「……!」
力ない声が余計に不安を煽ったものの、眉尻を下げたつらそうな表情で頼まれたことを無下にできるはずもない。なるべく揺らさないようにそっと抱き上げ、元のベッドへと運んでいく。
半分閉じたカーテンの内側に入りシーツの上に身体を横たえると、カーテン越しの光でも眩しいのか目の上に腕を乗せてからは微動だにしない。
見たことのない弱々しい様子に、これがあの飛鳥井先輩なのかと疑いたくなる。焦りで汗がこめかみを伝った。
まだパニックから抜け出せていなかった俺は、もう一度電話を探そうとそこから出て行こうとした。
「う……ぅ」
「先輩!?」
うめき声に振り返れば、先輩は身体を胎児のように小さく丸め、ガクガクと震えている。尋常じゃない様子に目を離すことができない。
「さむ……さむぃ」
その言葉を聞いてようやくひとつやるべきことを把握した。隣のベッドからブランケットを取り、先輩に掛ける。ブランケットの上から身体をさすると、わずかに震えが落ち着いたような気がした。
にもかかわらず、今度は浅かった呼吸に異変が生じた。ハッ、ハッと激しく息を吸い、喉を掻きむしろうとする。
「息がっ……、くるし……ッ!」
「ちょっ、先輩!」
その症状を俺は見たことがあった。先輩が自らの首に当てた指を引き剥がし、「ゆっくり息をして!」と声掛けする。
だが先輩の視界に俺は映っていないように感じる。声も届かず、俺は必死になってなんども先輩と視線を合わせようとした。押さえていても、くり返し手が皮膚を掻きむしろうとする。
「飛鳥井先輩! だめだって、落ち着いて! ……
ぴた、と先輩の動きが止まった。いきなり言うことを聞いて俺の方が驚いたくらいだ。しかも先輩の震えまで止まっていることに気づき、まさか……と思い至る。
苦しんでいたときの中途半端な体勢のまま固まってしまったので、試しにコマンドをひとつ投げてみた。
「先輩、
すると丸めていた身体から力を抜き、先輩はごろんと仰向けになった。俺は最近読み返したDom向けの本に書いてあったことを思い出し、グレアが出せているといいなと思いながらなるべく優しい声を発した。
「
その瞬間――先輩がこちらを見てふにゃ……と表情を崩し、嬉しそうに笑った。
驚きに目を見張る。
(うわ……まじか……! いつも超絶クールなこの人が!?)
前髪は冷や汗で額に張り付いているし眼鏡がないから、薄い二重の目をキラキラとさせているのがよくわかる。警戒心ゼロの微笑みは控えめに言って破壊力抜群だ。
ドクン、ドクンと焦っていたときとは違う動きで、心臓が居場所を主張する。
俺は戸惑いを隠せなかった。先輩が俺の命令を聞いてくれたことが、こんなにも嬉しいなんて。
しかも湧き上がってくる感情は、目の前のSubをもっと褒めたい、甘やかしたいという感じたことのないものだ。
俺は先輩の頭に手を伸ばし撫でたくなったのを我慢して、身体を起こしてベッドの端に腰掛けた。自分も必死で先輩の上に覆い被さったままだったのだ。
「こっち
後半はコマンドになっていなかったかもしれない。だが、まだ息の浅かった先輩は俺の顔にちゃんと目を向けながら、指示した通りにゆっくりと息を吐く。
しばらく続けているとようやく安定した呼吸に戻った。頬に朱が差し、顔色もだいぶ良くなってきている。
「ちゃんとできましたね。偉いです、先輩」
「えへへ」
褒めると歳上とは思えないほど幼い顔で、目を細めてふにゃふにゃ頬を緩める。あー、まつ毛が長いな……
見てはいけないものを見てしまっている心地になって、俺は天を仰いだ。これはまずい。
今回のプレイは偶然だが応急処置になった。俺も冷静じゃなく、また意図せずグレアが出てしまったのだろう。焦ってかけた言葉がコマンドになって、先輩の症状は落ち着いた。その理由にひとつだけ思い当たることがある。
――ダイナミクス由来の不安症だ。
SubやDomといった二次性をもつ人間は、欲求の程度こそ個人差はあれど、プレイをしないでいるとさまざまな不調が出る。高校生でも、ダイナミクスの成熟が早ければあり得ると聞いた。
俺はまだ、その辺りよく分からないけど……プレイというのも可笑しいほど未熟なプレイは、驚くほど心の柔らかい部分をくすぐってきた。
少しでも、この人の助けになれていたらいい。苦しむ人を見ているだけなのはつらいから。
「先輩。目を閉じて、眠って……今のことは忘れてください」
願いを込めて差し出した言葉は、温かい陽の光に混ざって溶けてゆく。触れないようにしながら目の上をそっと手で覆い、先輩が素直に微睡むのを見守った。
これ以上ここにいては駄目だと判断し、ベッドの周りをカーテンで覆う。このままだと自分がなにを仕出かすかわからないし、先輩を見ていると心臓が変な音を立てるのだ。
保健室を出てから、忘れかけていた手の痛みがズキズキと戻ってくる。もっとも、頭痛に苦しんでいたことを思い出したのはずいぶん後になってからのことだった。