うちの相方、あいつは昔からほんまにアホでな。
芸人を志して東京に出てきたばかりのころ、まだ二十歳そこいらで金がなかった俺たちは、ボロアパートの一室に一緒に住んでてん。部屋にエアコンなんてついとらんかったから、夏場はずっと窓を開け放ってな。現場仕事のバイトから汗だくで帰ってきたら、真っ先に冷たいシャワーを浴びるのが日課やったわ。
そんなある晩、いつものようにシャワーからパンツ一丁で上がったときのこと。
財布がかゆい──。
ふと、そう思たんや。
その財布は、部屋の中に脱ぎ捨てとった作業着ん中に入っとった。それがなぜか、自分の肌の一部になったかのようにかゆくてしゃあないねん。俺はすぐに財布を取り出しては、ムズムズするその中身を開けてみてやな。
ほんなら、さっきもろたばかりの日給一万円がなくなっててん。
事件や思たら、たちまち脳内に捜査本部が立ち上がってな。凄腕のベテラン刑事なんかおらんくても分かる。ホワイトボードに貼られた容疑者はただ一人──相方しかおらんかったわ。
「なあ、お前やろ」
俺は、布団の上で漫画を読む相方に向かって躊躇せんと言うたった。
「なんやねん」
「お前、俺の財布から一万盗んだやろ」
「何言うてんねん。俺がそないする奴に見えるか?」
漫画から顔を上げた相方は、寄り目をしながら口元をひん曲げとった。
「見えてしゃあないねんけど」
「いや、ほんま盗ってへんで」
「ほんなら、アリバイはあるんかいな」
そんときやった。俺たち二人の視線の間に、一匹の蚊が通ってん。
「そや、この蚊が盗ったんとちゃうか」
「なわけあるか。話そらすなて」
「そらしてるわけちゃう。ここは東京や。蚊だって金にたかってくんねや」
「何アホなこと言うとんねん」
俺はそうツッコミながらも、なんだか思い当たる節があって、持っとった財布をもういっぺんよう見てんな。ほんなら、茶色い革の表面に蚊に噛まれた痕のように赤く腫れとる箇所があって、そこが無性にかゆいねん。
そんで、ついそこを掻きむしっとったらやな。
「なあ、お前の一万をパンパンに吸って膨れた腹が光っとるで」
相方がそう言うて部屋の明かりを消すと、例の蚊は蛍みたく金色に光った。
俺は暗闇に舞う光の粒を目がけて、素早く両手を叩いた。と同時に部屋の明かりがふたたびついて、両手を開いたそこにはぺしゃんこに潰れた蚊と、くしゃくしゃに丸まった一万円札が挟まっててん。
「疑って悪かったな……」
「夜飯、おごってくれたら許したる」
「お前もたかるんかい」
結局、戻ってきた一万円札の半分は相方の腹に吸われてもうた。
それから、バイトの日はよう蚊に財布をたかられるようになってん。
金吸いよる蚊っちゅうんは、スリの手口で羽音もなくやってくるから厄介やねんな。パチンパチンと夜な夜な暗い部屋の中で両手を叩いて、奪われた金、片っ端から取り立てとったわ。
そんなある晩、すばしっこく逃げ回る一匹の蚊に遭遇してな。
なんべんも叩き損ねてイラついとった俺は、そんなときのために用意しとった蚊取り線香に火つけてん。たちまちその蚊はぽとりと床に落ちて、空中で吐き出された一万円札が蚊のあとを追うようにひらひらと舞った。
俺はその一万円札を回収して、用済みの蚊取り線香を台所で消火してんな。
そんとき、背後で玄関のドアが開く音がして相方がバイトから帰ってきた。
「えらい煙たい部屋やなあ」
そう言うて入ってきた相方は、俺の持つ一万円札と蚊取り線香を確認するなり、親でも殺されたんかっちゅうほどに顔をしかめたんや。
「いくらなんでも蚊取り線香は卑怯やろ!」
相方は目に涙を浮かべながら俺の持つ一万円札を奪い取って、そこに自分の財布から取り出した一万円札も上乗せして、いったい何するんか思たら、それを床の上に見つけた蚊の死骸にかぶせたってん。
「うちの相方が乱暴して悪かったな。これで許してくれるか?」
「金で解決かいな」
そう言うとる間にも、蚊はみるみるうちにその二万円を吸ってふたたび飛び上がった。
「お前もお前で生き返るんかい」
俺はまた叩きたくなるのをグッと堪えて、その気持ちを相方にぶつけてん。
「お前、なんで蚊一匹にそこまでしたんねん。窃盗で即死刑の生きもんやろ」
「生類憐れみの令や。家康や。その昔、東京は江戸やってんぞ」
「綱吉やろ。お前、ほんまにアホやねんな」
「ボケたんやて」
「素で間違っとったやろ」
「そんなことより、俺考えてんで。なんで蚊が人間に叩かれるリスク負ってまで金吸うんかって」
「教えてみいや」
「ほら、蚊って産卵のための栄養を蓄えるために血吸うって言うやろ」
「なんや、そこは博識なんか」
「きっとな、産卵には金もかかるんや。メス蚊が産婦人科行ったところで、保険は適用外やろし。それだけちゃうで。産んだあとも何かと金がかかる時代や。オムツにミルク、離乳食やろ。大きなってようやっと小学校に上がった思たら、ランドセルに紅白帽、体操服なんかも揃えてやらなあかん。ほいでリコーダーに鍵盤ハーモニカや。楽器は高いで。その上、友達がみんなやっとるからって僕も野球やりたいなんて言いだしたらどないすんねん。バッドにグローブ、ユニフォームやろ──」
「ごちゃごちゃうるさいねん。もうええわ」
『どうもありがとうございましたー』
「って、漫才ちゃうねん」
それから三日くらい経ってのことや。
朝方、チャリンチャリンいう音で目覚ましたら、相方がカップ麺の容器に向かって小銭を落とし入れとった。眠い目をこすりながらも横から中を覗きこんだら、そこに張られた水の中を銀色に光る小っこい芋虫──ボウフラが無数に泳いどるやないか。よう見たら、そいつらは相方が落とし入れる小銭をよってたかって食っとった。
「もしや、この前の蚊が産みよったんか」
「せや」
「そんなん捨てえや。気持ち悪い」
「んなことできるかて。いっぺん小遣いやったらな、兄さん兄さんって慕われてしゃあないねん」
「ボウフラ相手に先輩ヅラかいな」
さらに、それから一週間後くらいやったか。
チャリンチャリンいう音でまた目覚ましてな。せやけどまだ夜中やったし、よう見たら相方が小遣いやっとるわけちゃうかった。テーブルの上に置いてあったカップ麺の容器から、小銭の鳴る音に合わせて十匹、二十匹と金色に光る蚊が湧いとったんや。
相方の奴、この前の元本二万円からこうして金が増えること見越してたんか──。
そんなこと考えとったら、いつの間にか起きとった相方がこう言うた。
「投資やってん。今流行りの NISAや。非課税や」
「アホのくせによう考えたやんけ。さて、全部叩いたらいくらになんねやろ」
俺は両手を構えて立ち上がっては、目先の金色に忍び寄っていった。
ほんなら、一緒に立ち上がった相方が俺の腕をやたらと強く掴んで言うねん。
「叩くなや」
「なんでやねん。こっからまだ増やす気なんか」
「可哀想やろ。いやな、こいつらに毎日小遣いやっとったら愛着もってしもたんや」
「お前、やっぱりアホやねんな」
「うるさいわ。それにな、こんな金に頼ったらあかんとも思うねん」
相方は急にカッコつけた口調になってつづけよった。
「殺生して金もろて、それって殺し屋と変わらんやん」
「ちゃうで。これは害虫駆除のお仕事や」
「上手い返しやな。さすがは俺の相方や」
「感心してる場合かて」
「とにかく、こんなことして金持ちなるために東京来たんちゃうやろ?」
そこで、俺はようやっと構えとった両手を下ろしてんな。
「……それはそや。せやけど、もったいない気もすんねん」
「安心せえ。これだけの蚊にたかられるっちゅうんは、俺たちから金の匂いがしてるからに違いないで?」
相方は壁に貼ってあった漫才賞レースのポスターを剥がして掲げよった。ほんなら、窓から差し込む月明かりに〝賞金一〇〇〇万円〟の文字が照らされてな。
「今年こそはいける気がすんねん。優勝したらな、こんな風に金色の紙吹雪が舞うんや」
相方はいつしか部屋いっぱいに舞っとる蚊を眺めながら、その瞳を輝かせとったわ。
結局、その年の漫才賞レースは二回戦敗退やってんけど。
そんでもって、あれから少し売れた今も蚊に財布をたかられる毎日や。仕事のギャラは、俺と相方と蚊で三等分。あいつら、まったくネタ書いてへんのに。
最近じゃ、漫才中も蚊がついてくるようになってな。舐められたもんやで。
舞台に立っとる間、俺が相方にツッコむたびに、光の粒が舞う暗い客席ではものすごい拍手が巻き起こる。ほんなら、漫才終わって袖に捌けるなり、相方が嬉しそうな顔してこう言うんや。
「拍手笑いの連発や。なあ、今年こそはいける気がすんねん」
客が何を必死に叩いとるかも考えんと……あいつ、ほんまにアホやねん。