カーテンを閉め切った室内に、男たちの声がひそめいている。
宇宙ステーション『ディアナ』居住区、ホテル『ムーンパレス』スイートルームにて。
航は『民間護衛艦連盟』――『CFA』会長のユージーン・プライス氏と杯を交わしていた。
「……以上が『エレス』基地での戦いの情報です」
「そうでしたか。辛い思いをされてきたでしょう……よくぞ戦い抜いてくれましたね」
机の上には小型の黒い箱のような機械――盗聴対策の妨害電波を放つジャマーが置かれている。
ワイングラスを傾け、その渋みのある酸味を喉に流し込んだ航は、重々しいユージーン氏の言葉に頷きを返した。
「戦い抜かざるを得なかった、というのが正しいでしょうね。マザー司令の命令を受けた時点で、おれらの進む道は一つしかありませんでした。その道のなかで、『星野号』のクルーたちは必死に運命に抗ってくれた。彼らの奮戦がなければ、おれは立ち上がることもできなかったでしょう」
「素晴らしい部下を持ちましたね。だからこそ惜しい……ハルト君の死は、あまりに早すぎた」
ユージーン氏はそう言ってグラスを掲げる。航はそれに応え、瞑目してハルトへと祈りを捧げた。
「しかし……これでもうはっきりしましたね。マザー司令の行いは決して許されることではありません。警告もなくレーザー砲で敵もろとも焼き尽くすとは、非人道的であり、言語道断です。やはり正規軍はわれわれ民間護衛艦のことなど、使い捨ての駒としか思っていないのです」
ユージーン氏の口調に力がこもる。
本題はこれか、と航はサングラスの下の目を細めた。
「『自由で開かれた宇宙開発および貿易の権利を、すべての人民に保障する』。ご存じの通り、『アステラ憲章第七条』の一節です。しかし現在の正規軍はこれを無視し、横暴な振る舞いが常態化しています。もはや抗議では済まないところまできているのです」
でしたら、と航はユージーンの熱弁を遮った。
「政府へのテロでも起こしますか? これまで散々、色んな勢力が出ては潰され……その訴えも掻き消されてきた。武力に頼っても身を滅ぼすだけです」
「私とて馬鹿ではありませんよ。軽率に行動を起こしても、すぐに鎮圧されてしまうことは理解しています。ですが……我々が力を蓄え、世論を味方につけることができれば、政府や正規軍の心臓に銀の弾丸を叩き込むことも叶うとは思いませんか」
漏れ出そうになる溜め息を航は堪える。
ユージーン氏の義憤は理解できる。だが、いま行動を起こすのは非常にリスキーと言わざるを得ない。
知性ある『蠕動者』の出現――この脅威を鑑みれば、人類同士で争っている場合ではないのだ。
「仮に、正規軍と戦うのに十分な力を蓄えられたとしましょう。しかし、世論の同意を得なければならないという問題はどう解決するんです? 『アステラ』では情報統制が敷かれています。人々に真実を訴えることすら容易ではありません」
「根回しはしています。いずれ人々に現実を訴える機会は、必ず来る」
ユージーン氏は元々、大手金融機関で頭取を務めてきた人物だ。経済界や政界との太いパイプを持っている。彼の手腕であれば必要な根回しは完遂できるだろう。
ゆえに、危うい。彼はこれまで絵空事に過ぎなかった正規軍への反逆を、実現する可能性があるのだから。
「ユージーン会長、あなたの思いも十分理解できます。ですが、いまはその時ではありません。おれたちの敵は『蠕動者』であって、同じ人類じゃない」
「星野艦長……!」
思わず立ち上がって声を荒げたユージーン氏を、航は手を挙げて制した。
首を横に振り、静かに席を立つ。
話は終わりだ。これ以上は平行線だろう。
「会長、あなたの行動一つにおれたち『フリー』の護衛艦の運命がかかっています。決して早まらないよう」
最後にそう忠告し、一礼した航は足早にこの部屋をあとにした。
会長との話の中で、彼は一つ嘘をついた。
おれたちの敵は『蠕動者』――あれは正確ではない。本当は向き合い、知るべき他者だ。彼らの中に知性ある者が存在するならば、その目的を見極め、可能なら折衝を図ることが、これからの人類のすべきことなのだ。
*
夜が明けた。
時刻が六時を迎えると同時に宇宙ステーション内の照明が、一斉に点灯する。
それで朝の訪れを理解したベラは、微睡むまぶたを擦りながらベッドを抜け出し、身支度を始める。
着替えて顔を洗い、歯を磨き、髪を整えてメイクもする。戦いと隣り合わせだった『星野号』ではできなかった日常だ。それが久々に味わえただけで、心がほっと楽になるのを感じる。
「おはようございます、ベラさん」
「……」
「ベラさん? おーい」
客室を出て食堂へと向かう道中、ノアに声をかけられてもベラは上の空だった。
楽しげに歌いながら踊っていた、水色の髪の美しい少年。
不思議な韻律を持つ柔らかい言葉遣いの彼のことが、脳裏に焼き付いて離れない。
恋、なのだろうか。彼と対面した際、胸の深奥回路が奇妙に軋んだのはそのせいなのか。
――わからない。
ベラ・アレクサンドラはこれまでの人生、一度だって恋なんかしたことがないし、させてもらえないと思っていたから。
「だっ、大丈夫ですか、ベラさん……?」
「えっ? ううん、大丈夫よ。ごめん、心配かけて」
そう答えてもなお、ノアは不安そうな表情を消さなかった。
ハルトを失ったことでベラが落ち込んでいると、彼は思っているのだろう。
余計な心配をかけてしまった。あの少年のことを頭から追い出そうと、ベラは首をぶんぶんと横に振る。
「本当に大丈夫だから。今日もエスコートよろしくね、ノア?」
「はっ、はいっ!」
そうして、ベラとノアの一日は幕を開けた。
食堂で軽く朝食を済ませ、重力エリアのエレベーターへ。そこから車輪状の宇宙ステーションの中心にある無重力エリアへと移動する。
窓からは果てしない宇宙の暗黒と、その中で青く輝く『アステラ』が見える。彼女らは童心に返って強化ガラスに張り付き、到着までの間、しばし景色を目に焼き付けた。
『無重力エリアA1出口に到着いたしました――』
音声ガイドの言葉を最後まで聞かず、ノアはベラの手を引いてエレベーターを出る。
直後、ふわりと飛び出した勢いで天井へと二人して頭をぶつけてしまった。
「ちょっと!」
「ごっ、ごめんなさい! あ、『アーク工房』の拠点がこの先にあるんです。それを早く見せたくて――」
肩を竦め、ベラは天井を手で押して反動で床へと戻る。
「どっちなの!?」と聞くベラに「こっちです!」と手振りで示し、二人は廊下を右折して少し進んでいった。
再びエレベーターに乗ること数秒。
無音でドアが開くと、たちまち機械音の喧騒が鼓膜を叩く。
「よっノア坊! 元気だったかー?」
「久々に会ったと思えば女連れとは、おませさんですなぁ」
「もう、やめてよね! ベラさんとはあくまで『星野号』のクルー同士だから! 彼女が『ディアナ』の施設を見学したいって言うから連れてきただけだよ!」
二人に気づいたツナギ姿の整備士たちが、にやにやと笑いながらノアをイジる。
拗ねたように口を尖らせて足早に奥へと行くノアの後を、ベラは『アーク工房』のクルーたちに頭を下げつつ追った。
入ってすぐの薄暗いこの部屋は、どうやら整備士たちの休憩所のようだった。壁際には自販機と畳まれた簡易ベッドが置かれ、ベンチが幾つかあるだけのシンプルな設備。
奥の壁はガラス張りになっている。その前で手招きしてくるノアの隣に立ち、ベラは息を呑んだ。
「これが、『アーク工房』の
壮観だった。
奥行き数百メートルは超えるであろう広大なスペースに、【ノヴァ】の各パーツを組み立てるラインが整然と並んでいる。その合間の通路では幾人ものメカニックたちが動き回り、何やら指示を飛ばしているようだった。手前側では横たわった状態で組み上がっている【ノヴァ・トーラス】が一〇機以上、移動式のクレーンに吊られて運ばれている。
「パーツの組み立てから完成まで、全部ここで賄っているっていうの……!?」
「エンジンだけは『アレクサンドラ財団』のブラックボックスですから、そこは仕入れないといけないんですけどね。ほかはすべて、ここで済ませているんですよ」
誇らしげに語るノアに、ベラは驚きを隠せずにいた。
父は【ノヴァ】製作における民間企業のシェアが伸びるのを懸念していた。かつてのベラは財団の力の前には杞憂だと鼻で笑っていたが、これを目にしたいま、そうも言えなくなった。
この規模の工場ならば、エンジンと各パーツの資材さえあれば何十機、何百機の【ノヴァ】を生産できる。それはまさしく財団にとっての脅威にほかならない。
「これならあの父上に痛い目みせられるかも……!」
「――あら、かわいい女の子発見! まっ、あたしほどじゃないけど♡」
この場にそぐわない甘ったるい女性の声に、ベラは振り返った。
鮮やかに腰まで流れる、ストレートロングの赤い髪。目鼻立ちは非常に整っていて、すらりとした長身のスタイルも抜群だ。ゆったりとしたワンピースの胸元は豊満で、女性的な曲線美を描いている。年齢はベラより一、二歳上だろうか。
控えめに紅を差した唇を弓なりに曲げ、ウインクを飛ばした彼女は、つかつかと遠慮ない足取りで彼女に歩み寄ってきた。
「綺麗な銀色の髪! 傷跡のある左頬! 素晴らしいコントラストだわ! ……ねぇねぇあなた、可愛い声聞かせて?」
銀髪を手櫛ですきながら匂いを嗅ぎ、耳元で色っぽく囁いてくる。
パーソナルスペースをガン無視してくる女性に対し、一体何なんだこの人――とベラは呆然となった。
「ちょっとエルルカさん! ベラさんびっくりしてるでしょうが!」
ベラにまとわりついている赤髪の女性を、ノアは慌てて引き剥がす。
エルルカと呼ばれた彼女はがっくりと大げさすぎるくらいに肩を落とした。
「あーん、残念! ノアちゃんの意地悪! 可愛い子は
「それを言うなら旅をさせよ、でしょう。というかなんであなたがここにいるんですか。冷やかしなら帰ってくださいよ」
「違うわよ! あたしはそんな暇人じゃないわ! 今日はね、あたしのための最新機を見に来たんだから!」
その言葉にノアがぴくりと眉を動かす。
この人はパイロットなのか、とベラが少々驚きの視線を向けると、エルルカは得意げに微笑んでみせた。
「ベラちゃん、って言うのね? あなたも見なさい、あたしのスペシャルな【ノヴァ】を!」
彼女が指さす先――【トーラス】に続いて運搬されている【ノヴァ】に、ベラは目を見張った。
既存のどの【ノヴァ】とも異なる、異質な容貌だった。
まず脚が存在していない。あるのは両腕と、脚に代わって作られたイルカのような尾びれ。その見た目は濃紺のボディも相まって、さながら半魚人である。
「マーベラスでしょう? このあたしに相応しい機体だわ……」
「は、はぁ……」
正直ベラのセンスとはかけ離れすぎていていまいち分からない。
それはノアも同様だろう……と思って見ると、彼も目を輝かせて謎の半魚人【ノヴァ】に魅了されていた。
「とっ、とんでもない発想ですよ! まさか脚をまるごと尾びれに置き換えちゃうなんて! だっ誰が考えたんですか!?」
「もちろん、あ・た・し♡ このグレイトなあたしにとっては、【ノヴァ】の脚なんて飾りでしかないの!」
機体もそのパイロットも強烈すぎて目眩がしそうだ。
げっそりとした顔で一足先に退散しようとするベラだったが、エルルカに腕をぐいと掴まれて阻まれる。
「待って! あなた、ノアちゃんと一緒にいたってことは『星野号』の人でしょ!? あたし、エルルカ・シーカー。そしてこの新型は【ノヴァ・パイシーズ】。所属護衛艦は『フリーダム』よ。どうぞよろしくね、ベラちゃん♡」
護衛艦『フリーダム』。
フリーの世界に疎いベラでも聞いたことがある。
幾多の宙域を踏破し、前人未踏のフロンティアを切り拓いてきた、探求のカリスマ。
これまでに稼いだ額は優に一兆を超えると言われる、民間護衛艦のトップスター。
そんな艦のパイロットが目の前にいる。身体が脳の興奮を察知して震えた。
「エルルカさん。これが縁なら、どうか――【ノヴァ】パイロットとして、あなたに師事させてください!」
いつまでも足手纏いではいたくないから。
飛び込んできたチャンスへと貪欲に食らいついたベラに、エルルカは不敵な笑みを返した。