ゴウン、ゴウン、と。
規則正しく刻まれる重低音が耳朶を撫でる。
瞼を開き、差し込んできた白い光に思わず目を眇める。
「ぅ……」
瞬きを繰り返すと、ぼんやりとしていた世界は徐々に実像を結び、クリアになっていく。
見えてきたのは知らない天井であった。
時折明滅する蛍光灯の明かり。換気扇の辺りは若干薄汚れている。
身体に感じるやや固い反発と指先に触れる布の感触から、自分が今ベッドに横になっていることが分かった。
(ここ、は……?)
仄かに漂う薬品のような匂いを感じながら、記憶を辿る。
片道一週間の宇宙観光ツアー。その折り返し地点にして最大の目玉、無窮に広がるアステロイドベルトをこの目で見た。本来ならその後、『月の現し身』と形容される準惑星『エレス』に寄るはずだったが――。
「ッ……!!」
がばっと布団を剥いで飛び起きる。
シャトルから投げ出されていく人々、尾の一薙ぎで撃沈する【ノヴァ】小隊、虚無の大口に呑み込まれていく『護衛艦』。そして、恐怖の象徴たる怪物『蠕動者』。
一挙に蘇るその記憶に彼女は胸を押さえて喘いだ。
死んだ。皆、何も出来ずに殺されてしまった。馬鹿な金持ちも勇敢なる兵士も、等しき価値を持つ命だったのに――。
「おっと、安静にしていろ。病み上がりの身体に無理は禁物だ」
低く落ち着いた響きの女性の声がして、ベラはそちらを向いた。
こぢんまりとしたデスクの前に長い脚を組んで掛ける女性は、丸椅子をくるりと回転させてベラと対面する。
高い位置で一つ結びにした亜麻色の髪。目鼻立ちのはっきりした美しい顔。白いワイシャツに黒のスキニーパンツというシンプルな出で立ちはクールな印象を与える。
そして何より異彩を放つのが、首元のチョーカーとそれに取り付けられた五センチ四方の黒い箱のようなものだ。
「スミスさん、彼女が目覚めた。すぐに来てくれ」
左耳に着用したインカムを通して誰かに連絡し、タイヤ付きの丸椅子を滑らせて女性はベラに近づいた。
「大丈夫か? 自分の名前は分かるか?」
「ベラ。……ベラ・アレクサンドラ」
訊かれてすぐに答える。家名までは明かしたくなかったが、この身体を見られたのならいずれバレることだ。
固い口調で名乗ったベラに、その女性は「そうか」とだけ呟いた。
「意識レベルは問題ないようだな。しかし……やはり、アレクサンドラのご令嬢だったか」
「ええ。この身体を見れば一目瞭然でしょう」
そう自嘲を滲ませて言う。
肌着をたくし上げ、曝け出したベラの肌は銀色であった。
『N義体』。『ノヴァ』の頭文字から取られたその機械の身体こそ、今の彼女を生かす技術そのものだ。
一年前の大火でベラは全身の九十パーセントに大火傷を負った。
医者は手の施しようがないと言ったそうだ。しかし父は諦めず、財団の技術の粋を注ぎ込んで作った『N義体』を彼女の首から下すべてに置き換えることで、救命を図った。
「すまない。見るつもりはなかったんだが……」
「いいんです。命と天秤にかけたら、この義体を見られることくらい些細な問題ですから」
顔には火傷痕が残り、身体のほとんどが機械であるベラを、人々は醜いサイボーグだと馬鹿にした。近しい者には腫れ物に触れるように扱われ、無関係の者にもSNSやネット掲示板にて心ない中傷を受けた。
だから彼女は袖の長い服を着て自身の身体を隠した。周囲との心の壁を築き、遠ざけた。そうすることで自分を守ってきたのだ。だから本当は、見られたと分かった瞬間、胸が締め付けられるような恐怖を感じていた。
「でも、君は……」
「大丈夫です。機材さえあれば自分である程度はメンテできますから」
強がりに過ぎなかったが、女性はそれ以上何も言わなかった。
今度はベラのほうから気になっていたことを訊いてみる。
「あの……わたしを助けてくれた、あの機体のパイロットって」
流星の如く舞い降りて、その剣で『蠕動者』を瞬く間に細切れにした、女剣士のような純白の【ノヴァ】。
あの機体が来てくれなければベラは間違いなく、あそこで死んでいただろう。
「ああ、それは私だよ。【ノヴァ・ヴァーゴ】パイロットの
「立花、さん。あなたは命の恩人です。何とお礼を申し上げたら良いか……」
「当たり前のことをしたまでだよ。宇宙では助け合わなければ生きていけない。礼を言うのなら私よりも、君と私たちとを引き寄せた神様に言ってくれ」
深く頭を下げるベラに、立花は照れくさそうに鼻を掻いて笑った。
ごほんと咳払いした彼女は立ち上がり、ベラへ促す。
「どうやら軍医(スミス)は立て込んでいるらしい。歩けるようだったら先にブリッジへ行くぞ。これからどうするのか、艦長と話を付けなければならないからな」
「は、はい」
ベッドから脚を下ろしてみる。
立花の手を借りておそるおそる立位を取ったベラは、その場で一歩、前に出てみた。
腕を軽く振ってみたり、回してみたり。身体の動きに不調はないようだ。
(お父様の見立て通り、『N義体』は宇宙空間に投げ出されても無事ってことね……)
図らずも父の実験に貢献してしまったのが気に食わない。
が、それはひとまず置いておいて、ベラは立花に付いて医務室を出た。
廊下もやはりところどころに傷や汚れが目立ち、この艦がかなり年季が入っていることを如実に語っている。
壁に敷かれているベルトコンベアのような移動設備の持ち手を掴み、それに引っ張られて無重力空間をふわふわと進みながら、ベラは訊ねた。
「EAシリーズの艦、ですか? この時代に?」
「よく分かったな。流石はアレクサンドラ財団のご令嬢、ってところか。EA908号護衛艦、通称『星野号』……見た目はボロいが中身は改造済みだ。そこは安心しろ」
そう言いつつ開いた自動ドアからブリッジへ入っていく。
さほど広くはないそこは戦闘指揮所――一般にCICと呼ばれる――と一体化しているようで、レーダーや通信などの情報を表示した大型ディスプレイが前面に置かれていた。
廊下での会話が聞こえていたのか、青年の声が二人を迎える。
「ボロいだなんて酷いなぁ立花さん。このレトロモダンな感じがいいのに。ねぇ、お嬢ちゃんもそう思わない?」
「えっ? えっと、そうですねっ」
突然話を振られたベラは思わず上ずった声で返してしまう。
そんな彼女にくくっと笑い、ブリッジ中央の大きな背もたれの席から起立した青年は、彼女らへ振り返りながら言った。
「あはっ、お嬢ちゃんは正直なタイプなんだねぇ。そーいうの嫌いじゃないよ、おれは」
ぼさぼさの黒い髪に、顎や口元に生えた無精髭。頬の辺りにはニキビがぽつんとできており、不摂生なのが見て取れる。目元はサングラスに隠れてよく見えないが、声の雰囲気からして若々しい。衣装はワイシャツの上に紺色のフライトジャケットを着崩して羽織り、皺になった黒のスラックスを履いている。
「はぁ……口説かないでくださいよ艦長」
「誤解ですよ立花さん。まさかおれが未成年に手を出すような悪い男に見えます?」
「見えますね。誤解されたくないのなら、まずその胡散臭いサングラスを止めたらどうです。似合ってませんよ」
「ちっちっちっ、分かってないなぁ。これ外したらおれがイケメンだって世間にバレちゃうじゃないですかぁ。いくらおれでもそんな大勢の女の子」
「自惚れないでください」
辛辣なツッコミ。
ぐぬぬと歯軋りする艦長と呼ばれた男に対し、ベラは極北の視線を浴びせた。
随分とふざけた男だ。見た目もだらしないし、こんなのが艦長??
そう最悪な第一印象を抱いたベラに、立花は苦笑して言う。
「こう見えて腕利きの艦長なんだ。実力だけは私が保証する」
「そ、そうですか……」
「ちょっとちょっと、立花さん。実力以外もなんかあるでしょ?」
「??? さて、他に何かありましたかね」
「ガチのクエスチョンマーク浮かべるのやめて! 悲しくなるから!」
涙目になったかと思えばすぐに切り換えて、艦長はベラに改めて向き直った。
「怖かったと思うけどよく頑張ったね。君のことはおれたちが責任を持ってアステラに送り届ける。約束するよ」
手を差し伸べられる。指にタコがあるごつごつとした手だ。
少し躊躇った後、ベラは手袋を外して銀の手指を露にした。
そうして握手をしようとした、その時――。
ビーッ、ビーッ! と、けたたましいアラートが鳴り響いた。
「話は後だ! 総員、第一種戦闘配置!!」
身構えるベラを他所に、艦長はじめクルーたちが一斉に動き出した。
ディスプレイの地図にポップアップしている大量の赤い点を見上げる彼女の肩を叩き、立花は鋭く言う。
「君は下がっていろ! ここは危険だ!」
「立花さん、ハルト! 出撃準備急いで! 敵の数が思ったより多い!」
切迫した口調で命じられ、立花はベラを尻目に駆け出していった。
もう一人の青年パイロットも彼女の後に続く中、ベラと艦長だけがその場に残される。
ひとり操舵席に着いた艦長の背中を見つめ、少女は問う。
「あの……まさかブリッジに一人きりで、戦うつもりなんですか?」
「そうだけど」
「正気ですか!? 敵の数は二十を超えてる! さっきのミサイルも呑み込んじゃうような奴が現れたっておかしくない! それなのに――」
「おれはいつだって正気だよ。大丈夫、心配しないで」
ベラは言葉を失った。
たとえ実力が本物だったとしても、一人で戦闘指揮の全てを担うなど無茶だ。
そんな話、まともな軍人に話せば一笑に付されるだろう。
「立花さんに言われたでしょ? 君の命を危険に晒すわけにはいかない。下がっていて」
唇を噛み、ベラは拳を固く握り締めた。
自分はこの艦のクルーではない。ましてや戦闘経験もない。ここにいたところで戦力にもならないことは、分かっている。
それでも、何もせずに見ているだけなんて嫌だった。
自分の命は自分で守りたい。そして、あの立花のように、誰かを助けられる力を身に着けたい。
だから、ベラは。
「お断りよ、そんなの! 生殺与奪の権を他人に握らせるなんてごめんだわ!!」
艦長を真っ直ぐ見据え、そう叫ぶ。
その気迫にサングラスの底で目を見開いた艦長へ、ベラは続けざまに言った。
「それに、あの人は……立花さんは、宇宙では助け合わなければ生きていけないって言った! 一緒に生きてアステラに帰るために、わたしにも手伝わせてください!」
プライドも何もかもかなぐり捨てて、ベラは深々と頭を下げた。
モニターを一瞥し、それから彼女へと視線を戻した艦長は、ぐしゃぐしゃと髪をかき回しながら苦笑いする。
「立花さんも罪な女だねぇ。――分かった、君の意志を尊重しよう。君みたいな跳ねっ返りの強い女の子は、どーせ何を言っても聞かないだろうから」
どこか遠い目をして艦長は言ったが、それはベラの知る由もないことであった。
「火器管制を頼む。そこの右側の席ね」
指定されたポジションに座る。手元にはコンソール、眼前にはレーダーが捉えた敵の位置情報などを示すモニター。
地図上に表示される艦と敵との距離は徐々に近づいてきている。
会敵は間もなくだ。
「照準はAIが補正してくれる。君は大まかに狙いをつけてくれるだけでいい。操作はマウスで、スコープ覗くのは右クリック、射撃は左クリック。それだけ理解しておいて」
「はい!」
威勢良く返事をして、ベラは宇宙の暗黒を映すディスプレイを凝視した。
レーダーでは確認できている敵の姿が、映像だとほとんど見えない。完全に闇に溶け合ってしまっている。これでは照準の付けようがない。
「み、見えない……!」
「あーそうか、お嬢ちゃんには見えるわけないよなぁ。立花さん、ハルト、スモーク出す! 視界が悪くなるけど勘弁してよね!」
『了解』『ラジャーっす!』
席を立った艦長はベラの脇からキーボードを素早く叩き、煙幕弾を数発射出させた。
たちまち進路上の広範囲に緑色の粒子が広がり、視野を埋め尽くす。
「『蠕動者』の肌は粘り気を帯びている。闇の中で奴らの姿が見えなくても、こうして粒子を付着させてやれば……」
「色が付いて見えるようになる、ということですね」
「せーかい。奴らは何でも『呑み込む』性質がある。煙幕も吸い取られてすぐに意味を成さなくなるけど、一度身体に付いた粒子はなかなか取れない。煙が晴れれば敵の姿が視認できるから、結果としてこっちだけが得するってわけ」
艦長の饒舌な解説にベラはなるほどと腑に落ちた。
緑色の輪郭を帯びて蠢く『蠕動者』の数は、十を超す。二機の【ノヴァ】が先行してその首を落とさんと斬りかかる中、ベラはミサイルの照準を合わせようと目を細めた。
「二機がいる辺りを狙って。さあ」
それじゃ味方に当たっちゃうんじゃ、とベラは危惧したが、ここは大人しく艦長の指示通りにした。
「お二人とも、うっ、撃ちます!!」
呼び掛けてからロックオンし、ひと思いに射出コマンドを実行。
カチッとマウスを押すその動作だけで、艦上部から飛び出した数発のミサイルが二機のもとへと猛進した。
いけない、巻き込まれる――ベラが思わず目を瞑りそうになったその時、二機の姿がモニタ上から掻き消える。
「えっ?」
次の瞬間、着弾。
【ノヴァ】めがけて押し寄せてきていた『蠕動者』の群れが爆炎に呑まれ、跡形もなく蒸発していった。
「『蠕動者』にはヒトに寄り集まる習性がある。今回みたいに【ノヴァ】を囮にしてミサイルで一気に叩くやり方は、対集団戦のセオリーなんだ。特におれらみたいに【ノヴァ】保有数が少ない艦は、この戦術に頼ることになる」
すごい、とベラは感嘆した。同時にもっと知りたいと思った。
『蠕動者』に立ち向かう戦術を。生き残るための知恵を。
とはいえ、今は一息つかせてもらいたいけれど。
敵を全滅させ安堵に胸を撫で下ろすベラは、艦長にお礼を言おうとして――
「はっ?」
ブリッジ前面の窓に映る、虚ろなる影。
火傷の痕のような赤黒い表皮。強化ガラス越しに臭気を感じさせるような粘膜。鎌首をもたげ、見下ろしてくる眼のない貌は、獲物を哄笑するかのように大口を開いている。
「なん、で……!?」
全滅させたはずなのに。レーダーには他に反応はなかったのに。
全身の皮膚が総毛立つ。血の気が引き、吐き気を催し、奥歯がガチガチと音を立て始める。
蘇る絶望に指先が凍り付く。だがその氷を溶かすように、温かい手がそこに重なった。
「恐怖に負けるな。撃て」
永遠にも思えた一瞬の中で。
ベラ・アレクサンドラは全ての神経を己が指先に集中させた。
まだ、生きていたい。その一心で彼女はトリガーを引く。
「あああああああああああッッ!!」
咆吼が自らの殻を打ち破る。
一斉に撃ち出された弾幕が『蠕動者』の大口へとぶち込まれ、そして。
炸裂した爆薬がその頭部を吹き飛ばした。
衝撃が艦を震わせる。
ほどなくしてそれが収まった後、訪れたのは静寂だった。
「…………」
「よくやったね。えーと」
少女の肩に手を置いて、首を傾げる青年。
勝利へと導いてくれた彼に勝ち気な笑みを浮かべ、ベラは言った。
「ベラ・アレクサンドラ。ベラって呼んでください」
青年もまた口元に笑みを浮かべ、言った。
「おれは航。星野航だ。改めてよろしく」