無機質な機内アナウンスが流れてくる。
『間もなく見えてきますのがアステロイドベルト。いわゆる小惑星帯でございます。中でも準惑星「エレス」は活発な地下活動を繰り返しており、内部には海が存在するとも言われ――』
まどろみから覚めたベラはふかふかなシートの中で身じろぎし、うーんと腕を伸ばした。
頬杖をついて窓の外を眺める。
恒星の光に照らされて浮かび上がる無数の岩の砂漠。
その遠景に丸く輝いている銀色の星が、今回のツアーの目玉である『エレス』だ。
「お客様、エレスは初めてですか? この星はお月様とよく似ていると言われますが、実際は」
「水をちょうだい」
キャビンアテンダントの女性の言葉を遮って、ベラは振り向きざまに言った。
彼女の顔を目にした途端、女性の視線が揺らぎ、表情は僅かに強ばった。
もう慣れたことだ。溜め息交じりにベラはオーダーを繰り返す。
「水をちょうだい。聞こえなかった?」
「も、申し訳ございません。ただ今……」
慌ててカートからボトルの水を取り出す女性に、ありがと、と素っ気なく言う。
手袋をした手でそれを受け取り、細い指先でさらっとキャップを開けながら、ベラは機内の照明を反射する強化ガラスを見やった。
流れるストレートの銀髪。少女らしいあどけなさを残した繊細な美貌。丈長の白いワンピースの上にクリーム色のショールを纏う姿は、気品に溢れている。
しかし彼女は己を醜いと断じていた。
左眼の周囲を覆う、赤黒い火傷の痕。見れば誰もが顔をしかめる、忌まわしき傷だ。
(快気祝いの宇宙旅行だなんて、嘘に決まってる。本当はわたしの身体を実験台にしたいだけなんだわ、お父様は)
胸中で吐き捨てる。
一年前の大火に見舞われたベラを、父は財団の技術の粋を費やして生かしてくれた。
だが、彼女は父が嫌いだった。
最先端のテクノロジーで奇跡の復活を遂げた、悲劇のヒロイン。そんなふうに財団の広告塔扱いされていることは、目に見えていたからだ。
同時期にセラとかいう軍の若きエースが許嫁になったのも、その反感に拍車をかけた。
わたしは道具でも実験動物でもない――心の奥底ではそう叫びたがっていても、ベラは父に対して従順であるしかなかった。
(あそこを飛んでるのは、『護衛艦』? 小惑星の調査をしてるのかしら)
鬱屈した感情を抱えながら、ぼんやりと外を眺める。
全長五十メートルほどの小型の宇宙船から、防護服を着用した人影が出てきて、小惑星の地表で何やら作業をしているのが見えた。
自分は籠の中の鳥だ。彼らのように宇宙で羽ばたくことなど出来はしない。
そう自嘲の笑みを浮かべた、その時だった。
『蠕動者出現。ただいま随伴のノヴァ部隊が対処に当たっています。乗客の皆様は速やかに宇宙服を着用し衝撃に備えてください。繰り返します――』
アラートの不協和音が鳴り響き、自動音声の警告が事態を知らせる。
宇宙の旅では彼らとの遭遇は付きものだ。
乗客たちは談話を止めることなく、慣れた手つきでシート下の収納スペースから宇宙服を引っ張り出していく。
「やれやれ、落ち着いてきたかと思えばこれだ」
「これ着るの面倒なのよねぇ。どうせすぐに倒してくれるんだから、こんなものいちいち着なくてもいいんじゃないかしら?」
「だよなぁ。おい、ワインもう一杯もらえるかね?」
「お、お客様、今は緊急事態で――」
「いいじゃないか。【ノヴァ】による蠕動者の撃墜ショー! 酒の肴には最高だ!」
「やだっ、せっかく寝たと思ったのにまた泣き出しちゃった! もぉ最悪……」
誰よりも先に宇宙服を着終えたベラは、くっちゃべる大人たちを冷めた目で見ていた。
船の外では自分たち乗客を守るために、パイロットたちが命懸けで戦ってくれている。
にも拘わらずこの人たちは、彼らに守られるのを当たり前の権利として有り難がることもせず、あまつさえ酒の肴にしようという者もいる。
(どうして、この人たちはそんなにも他人事でいられるの? 自分たちの命を誰かに預けきりにするのが、怖くないの?)
きっと彼らは死の恐怖など何も知らずに人生を享受してきたのだろう。
人はいつ死ぬか分からない。そう、その時は今にもやって来るかもしれないのに――。
「ッ……!?」
船が揺れた。
衝撃が脳天を揺さぶり、轟音が耳を聾する。
ベラの座る席から反対側、船体の側面が歪み、強化ガラスに亀裂が走る。
誰もが言葉を失った。そして、誰もが恐怖を思い出した。
「きゃああああああああああああああああああああああッッ!?」
女たちが甲高い悲鳴を上げ、男たちが喚き、赤ん坊はわけも分からない不安に泣き叫ぶ。
船体に叩き付けられた黒い装甲は、人々を待つこともなく静かにずり落ちていき。
割れたガラスを塞いでいたそれが剥落した瞬間、船内の空気が一気に外へ流れ出した。
断末魔の絶叫と共に、吸い出されるように彼らは宇宙へ追放される。
「いやあああああああああああああああああああああああッ!?」
シートの背もたれにしがみ付いて歯を食い縛るベラの前で、彼女に水をくれた乗務員が、酒を頼もうとしていた恰幅のいい男が、赤ん坊を抱いて離さない女が、消えていった。
嫌だ。死にたくない。まだ、こんなところで終われない。父の都合で生き延びさせられて、父の人形のまま何も為せずに死ぬなんて、絶対に嫌だ。
(生き残る。この船がダメになったとしても随伴の『護衛艦』に乗り移ることが出来れば……!)
大穴の外の暗黒を見据え、ベラは覚悟を決めた。
万に一つでも生存の可能性があるのなら、それに賭ける。
運命は神のみぞ知る。だが、選択したのはベラ自身だ。
「行くッ……!」
手を離し、身体を丸めて流れに身を任せる。
宇宙空間へ投げ出された彼女はぎゅっと瞑っていた目を開き、その光景を目にした。
小惑星の影から姿を現す、全長三百メートルは超すであろう巨大な蚯蚓のごときおぞましい体躯。
赤黒い肌は醜くぬめり、生理的な嫌悪感を掻き立てる。
先端の眼のない頭部には大口がぽっかりと開き、飛来してきたミサイルをも受け容れ、飲み下していた。
『ミサイルが――』
『怯むなッ、かかれ!!』
ベラが顔を上げた刹那、量産機【ノヴァ・トーラス】の部隊が頭部に内蔵されたガトリング砲を一斉掃射した。
鉛の弾丸が長大な体躯を穿ち抉る。苦痛に悶えるようにのたうち回る『蠕動者』はその巨大さに似合わぬ速度で尾を薙ぎ払い、己を取り囲む機械兵の部隊を叩き潰した。
『――――――!!』
身をくねらせて躍動する『蠕動者』が『護衛艦』へと迫る。
ミサイルの豪雨を浴び、肉体が蜂の巣になってもなお突き進む怪物は、その勢いのままに獲物へと飛びかかり丸呑みした。
少女の眼前で一隻の艦がなすすべもなく喰われていく。
待って。やめて。嘘でしょ。
力なく首を横に振りながらベラは喘ぐ。
希望は失われた。あとはここであの『蠕動者』に呑まれるのを、ただ待つだけ。
――嗚呼、だったら。
喰われる前に自分で命を絶とう、と。
嗚咽を漏らす少女はヘルメットの後部にある開閉ボタンに触れた。
バイザーを開ければ肌が焼け、肺と鼓膜が破れ、呼吸もままならなくなって死ぬ。
それでいい。生きるも死ぬも、自分で決められるのなら、それで構わない。
逆光を背負ってこちらを向く『蠕動者』を見上げ、ざまあみろとベラは笑った。
震える指に力を込める。
その一瞬前のことだった。
流星が
『蠕動者』めがけて突き進む白き輝き。
自らを翻弄するように高速旋回するそれを怪物が追わんと身を翻し、転瞬。
蚯蚓の尾から頭部にかけて螺旋を描くように光が閃き、その胴体を輪切りにした。
「えっ――?」
残された頭部の直上へと舞い上がる影。
天高く頂く巨大な光の刃が一気に振り下ろされ――両断。
虚無の怪物に、止めを刺した。
「あれが、【ノヴァ】……!」
黒き肉片が舞い散る中、佇んでいる純白のシルエット。
血液を落とすように軽く振り払った剣を鞘に収め、こちらを見下ろしてくるその機体に、ベラは思わず見入っていた。
装甲を極限まで削っているであろう華奢な体躯。量産機と同じだけのスペースにエンジン系を詰め込んでいるらしく、胸部のみ膨らんだ外観は女性的な雰囲気を醸している。長い脚の立ち姿は息を呑むほど凜としていた。
女神様だと、本気で思った。
「助かった、の……? わたし……」
そう呟いたのを最後に。
ベラ・アレクサンドラは意識を手放した。