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第1話 旧友?

小さなハエになったベルゼブブは驚きを隠せなかった。


「人間界は資源も食糧も枯渇し、繁栄どころか存続すら危うい」と聞いていた――かつて魔王と相談の末に一時手を引く決断をしたほどの衰退ぶり。それなのに、今ベルゼブブの複眼に映るのは、嘘のように堂々と繁栄する首都の姿だった。


街並みを覆う石畳の道路は隅々まで整備され、華やかに装飾された建物が立ち並んでいる。活気に満ちた市場では人々が笑顔で声を掛け合い、あふれる食べ物や商品を手にしていた。豊かさそのものだ。


「一体どうなっている?」

小さな羽音を響かせながら街を飛び回るベルゼブブ。彼の小さな体は人々に気づかれることなく、建物の間や広場を自由に動き回れる。


彼の複眼に映るのは、溢れるほどの食料、贅沢な服に身を包む人間たち、そして日々の暮らしを謳歌する笑顔。かつて耳にした「崩壊寸前の人間界」とは、あまりにもかけ離れていた。


しかし、目を凝らして観察を続けるうちに、繁栄の裏にあるものが見えてきた。街の隅、そして路地裏には、薄汚れた住居や身を寄せ合う人々の姿があった。豪華な屋敷に住む者たちと対照的に、スラム街での生活は明らかに劣悪だ。


「なるほどな……大富豪、富豪、平民、貧民、そして大貧民といったところか」

ベルゼブブは皮肉を込めて呟いた。人間界の繁栄は、全員が享受しているわけではない。その実態は、まさに格差社会だった。


目を凝らすと、大貧民と呼べる者たちの暮らしはさらに酷いものだった。人間が住むべきでない場所――下水道にまで追いやられている者たちがいる。そこは空気が淀み、悪臭が漂う暗い世界。そこに住む者たちがいるという事実に、ベルゼブブは僅かに興味を抱いた。


「下水道だと? 一体どんな奴が住んでいるんだ?」

彼は更なる興味を抱き、スラム街を飛び越え、下水道の入り口へと向かった。


下水道の近くに来たとき、ベルゼブブはふと足を止めた。いや、小さな羽ばたきを止めたと言うべきか。その場で彼の複眼が何かを捉える――微かに残る、懐かしい魔力の痕跡だ。


「この魔力……どこかで感じたことがある。だが、いつだったか思い出せん」

迷うことなくその痕跡を追い始めたベルゼブブ。狭く湿った通路を進む中で、鼻を刺すような強烈な悪臭が彼を迎えた。


「クク……人間どもも随分落ちぶれたものだな。こんな場所で生きるとはな」

臭気に満ちた空間であろうとも、彼の鋭い嗅覚は魔力の残り香を捉え続ける。臭いが濃くなるほど、魔力の主に近づいている証拠だった。


やがて彼がたどり着いたのは、下水道の一角に広がる小さな空間だった。古びたランタンがかすかに光を放ち、その周囲にはボロボロの寝具や朽ちた木材が散らばっていた。人が住んでいる痕跡が、そこには確かにあった。


ベルゼブブは複眼を細かく動かし、空間を見回す。やがて彼の目は、隅で何かをしている人影を捉えた。老人だ――背中を丸め、古びた剣を手に持ち、静かに研ぎ続けている。


「この魔力は……なるほどな、あの老人か」

ベルゼブブは羽音を抑え、さらに老人に近づく。


しかし、その時。

「ただいま、じいちゃん!」

高く響く若い声が空間に広がった。


ベルゼブブは反射的に振り返った。声の主はまだ少年の面影を残す若者だった。手には小さな兎を抱え、顔には満面の笑みを浮かべている。


「今日の収穫はウサギ1匹だけだったけど、無事捕まえられたよ!」

少年は誇らしげに老人へと話しかける。その姿は、日々を懸命に生きる者そのものだった。


「アステルか……ありがとうな。その兎一匹で十分じゃよ。お前が無事に戻ってきただけで、わしは満足じゃ。」

老人は顔をほころばせながらも、どこか悲しげな表情を浮かべている。


ベルゼブブはその光景を見つめながら、わずかに笑みを浮かべた。

「面白い。この若者と老人、一体誰なのか探ってやるか…」


羽音を響かせながら、彼の観察は続いていく――。



以下は、描写をさらに細かくし、各場面をより詳しく掘り下げた長文版です。


ベルゼブブは壁にとまったまま、引き続き老人と若者の会話に耳を傾けていた。

「下水道の壁にいる限り、気づかれることはあるまい」――そう自信を持ちながら、複眼に映る二人の姿を観察する。


「このウサギ、スープにしてみようかな?じいちゃんはどう思う?」

「そうじゃな……香ばしく焼くのもええが、スープなら腹持ちも良さそうじゃ。」


二人はごく普通の、平凡な会話を続けている。老人は穏やかな声で答え、若者は時折笑いながら何度も頷く。その光景は、ベルゼブブにとって驚くほど単調で、そして退屈だった。


「くだらんな……」

小さな羽音をわずかに響かせ、ベルゼブブはゆっくりと飛び立つ準備を始めた。これ以上、この平凡な会話を聞き続ける必要もない。


しかし、その瞬間、老人が静かに口を開いた。


「アステル、ちょっと頼みがあるんじゃ。」

若者――アステルはその声にすぐ反応し、顔を上げる。


「何でも言ってよ、じいちゃん!」

彼は無邪気な笑顔を浮かべながら答えた。


「このウサギの肉に合うハーブがのぉ、近くの場所に自生しておる。それを取ってきてくれんか?」

老人の頼みに、アステルは力強く頷くと、持っていたウサギを床に置き、勢いよく立ち上がった。

「任せて!すぐに戻るよ!」


その背中を見送りながら、老人は静かに微笑む。その表情には、わずかな安心と切なさが滲んでいた。


ベルゼブブは壁からゆっくりと飛び立ち、羽を動かし始めた。

「さて、次はどこに行くべきか……」

軽い準備運動をするかのように、羽ばたきながら思案する。


しかしその時――。


「いつまでコソコソ見ておるつもりだ、魔族。」

老人の低い声が空間に響き渡った。


ベルゼブブはその声に反応し、瞬時に身構えた。同時に、老人から放たれる明確な殺意を感じ取る。

「……ほう?」

わずかに笑みを浮かべたベルゼブブの体が、みるみるうちに膨張し始める。羽音が次第に低く重い音へと変わり、複眼は消え去り無数の目が現れた。漆黒の翼が広がり、禍々しい威圧感が空間を支配する。


ベルゼブブの本来の姿を前にしても、老人――エイゼンは微動だにしなかった。むしろ、手にしていた剣を静かに構え、その切っ先をベルゼブブに向ける。


「闇の気配を消したつもりかもしれんが……」

エイゼンの声は低く、しかし確信に満ちていた。

「貴様のような化け物、瘴気がダダ漏れなんじゃよ。」


ベルゼブブはその言葉にますます興味を覚えたようだった。


「ククク……まさか、こんなところで会えるとはな。勇者エイゼンよ、久しいな。」

懐かしむように、そして挑発するようにその名を口にする。


エイゼンは目を細め、わずかに剣を動かした。

「ふん……もう50年も前になるかのう。お前とやり合ったのは。だが、あの時は決着がつかなかったはずじゃ。」


ベルゼブブは楽しそうに無数の腕を広げた。その動きと共に、周囲の空間が歪み始める。溢れ出す魔力はあまりにも強大で、空間の色彩を奪い去った。


「その通りだ、エイゼン。だからこそ楽しみだったのだがな……」

彼はエイゼンを見つめながら、さらに魔力を高め続ける。


エイゼンもまた全身から魔力を放ち、剣を握る手に力を込める。しかし、その放たれる魔力の差は明らかだった。


「老いたな、エイゼン。貴様のような虫ケラを相手にするほど、俺は暇ではない。」

ベルゼブブの声は冷たく響いた。


エイゼンは冷や汗を流しながらも、毅然とした声で叫ぶ。

「どこからでもかかって来い……わしは逃げぬ!」


だが、その言葉を聞いていたベルゼブブはふっと笑い、広げていた腕をゆっくりと下ろした。周囲を歪めていた魔力が静かに収まり、空間に色彩が戻っていく。


「安心しろ。もう俺は貴様のような老体には興味がない。」

その言葉に、エイゼンは驚きの表情を浮かべる。


「……何を企んでいる?」

エイゼンはなおも剣を構えながら、ベルゼブブを睨みつけた。


ベルゼブブはにやりと笑いながら、ゆっくりとエイゼンに近づく。

「ククク……少し話がしたいだけだ。」


エイゼンは剣を構えたまま、目の前に立つベルゼブブをじっと睨みつけていた。

緊張がピークに達し、空気が張り詰める。しかし、ベルゼブブは何を企むでもなく、ただ楽しげな表情を浮かべているだけだった。


「ククク……そんなに怯えるな。俺は今日は貴様を潰しに来たわけではない。」

ベルゼブブは肩をすくめるような仕草を見せながら、周囲を見回した。


「ふん、冗談が過ぎるぞ。こんな魔力を放っておいて何を言う。」

エイゼンは、なおも剣を構えたまま口を開いた。

「で、貴様が話したいこととは何だ?」


ベルゼブブはその問いに対し、不敵な笑みを浮かべると、ゆっくりとエイゼンの前に腰を下ろした。禍々しい姿のまま、奇妙にリラックスした態度だった。

「ちょっとした昔話でもどうだ?貴様のような老いぼれ勇者とここで会うとは、なかなかの偶然だ。」


エイゼンは剣を構え続けながらも、ベルゼブブの言葉に戸惑いを隠せない。

「……昔話だと?」

「そうだ。お前が率いていたあの愉快な仲間たちの話だ。あいつら、今頃どうしてる?」


その言葉を聞いた途端、エイゼンの表情がわずかに曇った。

「……愉快な仲間たち、か。もう随分昔の話じゃ。」

エイゼンは剣を下ろし、溜息をついた。


ベルゼブブはその様子を見て、さらにニヤリと笑った。

「ほう、随分と重たい空気だな。何かあったのか?」

「何かあった、だと?」

エイゼンは苦笑いを浮かべながら、古びた剣をそっと地面に置いた。

「あいつらはな……もう誰も生きていない。」


ベルゼブブの目がわずかに見開かれる。

「ほう……それは残念だったな。」


しかし、次の瞬間、ベルゼブブは声を上げて笑い始めた。

「ククク……いや、悪いな。死者を笑うつもりはないが、なんだ、その言い方!悲しげに言う割には、そこまで辛そうにも見えんぞ?」


エイゼンは苦笑しつつ、ランタンの近くに座り込んだ。

「そりゃあ、悲しいさ。だが、奴らはそれぞれ立派に生き、立派に死んだ。……それだけの話じゃよ。」


その言葉に、ベルゼブブは興味深げに顎に手を当てる。

「なるほどな……立派に生きた、か。だが、そういう奴らほど死ぬ時は滑稽なものだろう?」

「……まったく、お前という奴は本当に忌々しいのぉ。」

エイゼンはそう言いながらも、どこか懐かしげな目をしていた。


ベルゼブブは満足げに笑いながら、ゆっくりと魔力を抑えていく。禍々しかった姿が徐々に縮小し、小さなハエの姿へと戻っていった。

「よし、こうして俺もハエになった。これで少しは話しやすくなっただろう?」


その光景にエイゼンは呆れつつも、肩の力を抜いて苦笑する。

「貴様がどんな姿になろうと、話しやすいとは思えんがな。」


その後、二人の会話は徐々に軽快なものへと変わっていった。

エイゼンはかつての仲間たちの失敗談や、冒険の中で起こった笑い話を語り始める。ベルゼブブはそれを聞きながら、時折「ククク、それで?」と楽しげに促した。


またベルゼブブも、自分の魔王や部下たちの失態を面白おかしく語り出した。

「お前も覚えているだろう、あの頃の魔王の愚痴だ!“忙しい、忙しい”といつも言っていたが、実際は手下どもに仕事を丸投げしていたんだぞ!」

「それは知っておるよ。むしろお前が指揮を執っておったんじゃないか?」

「ククク、そうだったかもしれんな!」


二人の声は笑いに満ち、下水道の暗さを忘れさせるほどの明るさを帯びていった。

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