この世界は一年のほとんどが真っ暗闇である。陽光が降り注ぐことなど稀だ。しかし寒いかというとそうではなく、日がな一日ぬくぬくと暖かい。
明りがなく体が温まる。すると当然の帰結として、この物語の主人公‶おっさん〟は良く寝た。惰眠をこれでもか! と貪っていたが、年がら年中寝るのも飽きてくる。久しぶりに体を動かして、健康的な労働をしようと思った。
おっさんは突きでた太鼓腹をパチンと叩き、気合をいれて立ちあがる。筋金入りの怠け者にはこういった儀式が重要なのだ。
本格的な寒波が訪れるまえに一度、世界には雨が押しよせてくる。
──どう乗り切るか。おっさんは何度か体験済みであるが、慣れることはない。前回などは映画タイタニックの主人公よろしく、水中に沈んでいくところであった。
しかし今回は、考えがあった。
ある日おっさんが散歩していたら、道に特大サイズの骨が落ちていたのだ。大きさにして彼十人分はあるであろう、先端のとがった骨。大きな動物の死骸の一部だろう。すると、これを食べた超巨大肉食獣があたりにいるはず。おっさんは身をかがめて周囲を見渡すが、生物の気配はない。どうやら、もう遠方に立去ってしまっているようだ。心の底から安堵した後、おっさんは雷に打たれたように閃いて、身体を震わせた。その刺激で放屁もした。音を誰かに聞かれぬように、「おのれの優秀さにびびったあ!」と大声をはる。
おっさんは道端から大きめの石をひろい、骨を入念にけずり始めた。まず足をかけるための穴を数か所つくり、するすると骨に駆けあがれるようにする。それから上部に人が横たわれる、浴室のようなスペースを作った。骨の船の出来上がりである♪
そうして、恐れていた日は、あっという間にやってきた。
一定のリズムで発生する金属音で、おっさんは夢の世界から引きずり出された。世界じゅうに鐘の音が鳴り響いている。カン、カン、カン! 鐘ではなく、終焉のラッパの音だろうか。それとも敵国の騎士たちが、鎧を鳴らして大行進しているのか……。
しばらくして、おっさんの背中が冷たくなった。世界に水があふれてきたのだ。そう、金属音は大雨開始の合図だった。
去 年もそうだったと、思いだす。どうも、おっさんになると記憶力が危ぶまれる。一年に一回のイベント行事とか、あらかた忘却のかなたへ飛んでいってしまう。青年時代は明瞭に覚えていたものだったけど。歳を食うって、いやーね。
おっさんはパジャマから布の服に着替えて、外にとび出る。玄関口では運動靴ではなくサンダルを選んだ。
雨は奥から奥から押し寄せてきて、波となる。おっさんは焦ることなく冷静に、骨の船に乗ることができた。ぐわんぐわんと果てしなく続く大波に揺られるが、おっさんは船にかじりついて落とされない。奥歯を噛みしめて耐え抜く。
一度だけ、おおきく体勢を崩した瞬間があったが、持ちなおした。服を大波に持っていかれはしたが。
「やだー♡」
全裸のおっさんは胸を手でおおい、内股で腰をくねらせた。それでも諸々、丸出しだ。
次第に世界から水が引けてきた。
ここまで来たら、おっさんの勝ちである。まだ地上は濡れてはいるが一度波が引けたら、水が再度あふれかえることは、経験上あり得なかった。これから世界は乾季に入るが、船倉に大雨がたまる仕組みを作っておいたから、そこにたまった水でしのいでいける。
「希望が見えてきた」と、おっさんはこわばった両手を広げて、伸びをした。そして、船を降りて胸いっぱいに空気を吸う。毛の生えた胸部が膨らんで太鼓腹と相まり、その上半身は美しい半円を描いた。おっさんは勝利の雄たけびをあげた。
数日後、珍しく天から陽が差してきたので、おっさんは眩し気に空をみあげた。しかし、そこにはルドンの名画『キュクロープス』のような一つ眼が、こちらをのぞきこんでいたのである。一難去ってまた一難だ。やれやれ。
おっさんはげんなりしながらも、『大雨後には長い棒が世界をかき回したり、ガラクタを置いていった』と記憶をたどる。結局は人生において、苦難のない時期などありはしないのだ!
おっさんは立ち上がり、「なんだァ?てめェ……」と空の目玉にむかって唸った。とはいえ──この眼の持ち主。船に作りかえた骨を、投棄していたヤツだとしたら、超巨大肉食獣だ。
おっさんの心臓が、早鐘をうつ。
*
ユージはネット動画配信の黎明期から、たたき上げで人気を勝ちとってきた男だった。
鳴かず飛ばずだった『ユージの恐怖チャンネル』も、自身の足で現地の怖い話を取材して、地道にやってファンがついたものだ。今では、TⅤのレギュラー番組だって持っている。だから、緊張はすれども生放送の特番MCで下手をうてない。気合が入っていた。ここでつまずくわけにはいかない。
生半可なお笑い芸人だったならば、スタジオから、あの不思議系アイドルに指示をだすのも難題だろうと思う。ユミコは、自室に撮影スタッフを招きいれて撮影をしていた。
「どう? ユミコちゃん。ポケットの中にいたかな、小さいおっさん」
「うちゎ嘘つかないよ☆マヂいるんだって。おぢさんの妖精。でも暗くってみづらい」
照明担当のスタッフが気を遣ってライトをあててくれる。あーと言って、ユミコがコートのポケットから何かを取りだした。
「勘太のチキンの骨だぁー。先週、取りださないで洗濯機かけたみたい。やべぇー」
「あの、おばあちゃんの味で有名な勘太のチキン? 今日、TⅤ放送するのに中を確認していないのか。あと今、小石も出てこなかった?」
「あー公園の砂場で時々遊ぶっしょ。そうすっとポケットにはいっちゃうよね」
「ユミコちゃん、成人されていますよね……」
ユージが情けない声をあげる。これは本物の不思議ちゃんだ。まずいかもしんね。
「でもコートをTⅤ映えするために、洗濯機に入れたし」
「そのバックル付きのトレンチコートを洗濯機に。金具がカンカン鳴ってうるさいだろうに。というか洗濯可なのか? 妖精も洗濯で流されちゃったんじゃないの」
ユージはもう泣きそうだ。
その時、ユミコが「いたぁ!」と歓声をあげた。ポケットの中から、人差し指と親指でおっさんを挟み、カメラの前にさしだす。カメラはおっさんの小ささに、ぐっと彼女の手元に寄っていく。
ユージのいるスタジオには悲鳴があがり、お茶の間のTⅤ画面には、お花畑と『しばらくお待ちください』の文字。
この特番はレギュラー放送を勝ち得なかったが、ちらりと映った全裸のおっさんは世間で爆発的な話題になった。ネットではしばらく動画を見ることができたし、静止画も出回った。威風堂々とした妖精の画像は、スマホの待ち受け画面にすると、不幸が変態に恐れをなして逃げるとさえいわれた。──宝くじ当選はもちろんのこと、異性にもモテル。すえは美人と札束の風呂にはいれます。
その噂が誇大広告でないことの証拠に、ユージは番組プロデューサーから、謝罪がわりのレギュラー番組を一ついただいた。それをきっかけに、彼は芸能界の荒波をかき分け、大成功をおさめるのである。
不思議系アイドルのユミコも、たまに彼の番組のアシスタントを務めた。
そして、肝心の我らがおっさん妖精だが、盛大な放送事故のどさくさに紛れて行方知れず。その後ユミコの前に姿をあらわすことはなかったので、彼女の家からは出ていったと思われる。
ひょっとしたら、あなたの部屋のクローゼットに忍びこんで、洋服のポケットの中でいびきを立てているかもしれない。