「……とても信じられません」
清十郎から架空取引の状況について知らされた木下は、証拠の資料を前に絶句した。
「所長を疑っているんですね?」
「コンサル・サービスの使用者が綾瀬所長お1人である以上、彼女の関与は確実と考えています」
判決を言い渡すように、ジェニーが言った。
「そもそも契約時におかしな点はありませんでしたか?」
「所長の紹介でしたし、本社でも利用実績があると聞き、安心していました」
新規取引開始時に、グループ会社や社内他事業所での利用例があれば、たいてい審査を通過することができる。それも本社での実績があるとなれば、安心してしまう気持ちは理解できた。
「契約内容のチェックを十分行わなかった私の責任でもあります」
木下は潔く過失を認めて、ため息をついた。
「契約時の信用調査に関しては、沢井調達課長に追跡調査をお願いしています。その結果次第で、木下さんに追加の質問をさせていただくかもしれません」
「わかりました。私に答えられることであれば」
清十郎の要請に、木下は頷いた。喉を湿らせようと茶碗に手が伸びたところで、ジェニーが口を開いた。
「ところで木下さん、開発テーマが随分長期化しているようですね?」
「そうですか? うちは基礎研究所なので元々長期の開発テーマが多いんですよ」
「ええ。基礎研究なら毎年費用処理されていますね。お聞きしたいのは、事業化研究の方です」
物になるかどうかわからない基礎開発費用は「期間費用」として当該年度の損金に算入することになる。一方、「製品化」して販売したり、社内で使用することができる研究成果、ノウハウや製造方法などは製造原価に参入すべき対象となる。
ジェニーが持ち出した「長期化した研究」とは事業化を予定しながら、研究が完了せず、未だに費用計算を開始していない滞留資産のことであった。
「こちらで数えたところ、3年以上滞留している開発テーマが50件以上ありますね」
「申し上げた通り、難しいテーマを多数抱えていますのでね」
「これらの滞留資産残高は合計で1千億円を超えていますが、もちろんご承知ですよね?」
ジェニーの声に斬りつけるような厳しさが加わった。
「……正確な数字は記憶していませんが、それくらいのオーダーにはなるでしょう」
「木下さん、本当に『回収可能性』がありますか?」
ジェニーが畳みかけた。
「回収可能性」とは将来事業化して利益を稼ぐことができるかどうかという基準である。これを満たせなければ、資産残高は不良資産ということになる。
「事業化可能と考えていますが?」
木下は表情を変えずに答えた。
「毎年100億以上の費用が他案件から流用処理されていますな。これはどう説明します?」
清十郎が指摘した。本来費用処理すべきものを他の研究開発費から滞留テーマに移動させているのではないか。
「……。個別の取引内容まで承知していませんな。ご質問を頂ければ、該当部門に持ち帰って調べさせます」
木下のペースは乱れない。まるで今回の監査に「〆切」が設けられていることを知っているような落ち着きぶりであった。
「それには及びません。度重なる流用の事実だけで、内容の異常性は十分証明できますので」
「そうですか。他に何かお手伝いすることがありますか?」
「いいえ、これだけです。お手間を取らせました」
最後まで落ち着き払って、木下は部屋を出て行った。
「どうも気に入らねぇな」
木下の足音が聞こえなくなってから、清十郎はぼそりとつぶやいた。
「気に入らないって何が?」
「ネタを掴まれてるってェのに、あの落ち着きぶりはどういうことだ?」
「虚勢を張ってるんじゃないの?」
いずれにせよ不正経理の尻尾は掴んだ。ジェニーには木下が責任を逃れる道はないように思われた。
「どういうつもりか知らねぇが、用心だけはしておこう」
清十郎は自分に言い聞かせるように言った。
◆◆◆
「さて、いよいよ
「うん。気を引き締めていこう」
清十郎とジェニーは顔を見合わせて、互いに気合を入れた。
3人目として綾瀬所長をインタビューに呼び出したところであった。
10分ほどで現れた綾瀬は、ジェニーがぶつける架空取引の疑惑を頭から否定した。
「見解の相違ですね。林田先生からは業界最先端の知見をご指導いただいていますわ」
「しかし、事跡に残っているのは研究雑誌のコピー。それも使いまわしです。実態が伴っていませんね」
「何かの手違いじゃないでしょうか。たまたま事務の方が添付する文書を間違えたとか」
綾瀬は落ち着いて、清十郎の指摘に反論した。
「毎回間違えるもんでしょうかね?」
「さあ、ご当人に聞いてみてはいかがでしょうか?」
妙に自信たっぷりだなと、清十郎は不思議に思った。
(関係者は
だとすれば、そもそも林田技研という会社自体がきな臭い。
(反社のトンネル会社かも知れねェな)
それからは何を聞いても知らぬ存ぜぬを、綾瀬所長は押し通した。