現場に出ていた岩見が帰って来たのは午後4時を20分近く回ったところだった。
岩見がトイレに行っている間に、清十郎はポットのコーヒーを入れてやった。
「ああ、すみません。いただきます」
岩見は短く礼を言ってコーヒーを啜った。行動の節目に頭を切り替える。それにはコーヒーや喫煙が役に立つ。
清十郎は煙草を吸わないが、煙草の効用を否定はしない。害の方が多いだろうと思ってはいるが。
「岩見さんがいない間に、ここまでの資料は集まってます」
清十郎は宿題のリストを示す。提出済みのものにはチェックが入っている。
「助かります。残りにフォローを掛けたら、私の方は一旦調査終了です」
「それじゃあ、経理チームを呼んでおさらいした後に、チーム内の打ち合わせをしましょうか』
「結構です。そうしましょう」
清十郎が出した宿題は大体集まっている。いくつか時間がかかるものもあるが、データ照合だけの問題なので明日の朝にはもらえるだろう。不正を疑っているわけではなく、あくまでも整合性チェックの一環である。
ジェニーの宿題は複雑な内容や時系列をさかのぼる内容が多いため、多くは明日の朝出来上がって来る見通しだった。既に一式依頼済みなので、一旦ジェニーの手を離れている。
監査に当たってはこの手離れの良い調査依頼という作法が重要になる。相手は仕事の時間を割いて対応している。ずるずる、ぽつぽつと依頼を投げられては中断が多くなり、作業効率が著しく落ちるのだ。
「悩むくらいなら頼め」というのが鉄則で、それが結局お互いのためになるのであった。
川村課長、松永主任、そして佐野を集めての打ち合わせで、今日の調査進捗状況と宿題の積み残し、明日の段取りを確認し、内部打ち合わせのみを残してその日の調査を終了した。
◆◆◆
「お疲れさまでした」
「ああ、お2人こそお疲れさまでした」
岩見は上辺の言葉ではなく、2人の労をねぎらった。調査の難しさではジェニーの分担が大きく、進行や段取りについては清十郎の働きが大きかったからである。
「最初に私の方から報告させていただくと、不正や大きな問題点は見つかりませんでした。仮受材料や従業員立替金勘定に一部停滞が見られましたが、フォローアップは行われており、管理不備と言える内容ではありませんでした。仮受材料については取引先の納品書に不備がありますので、指導を徹底するようお願いする予定です」
清十郎は自分の分担範囲について概略を説明した。
「私の方はいくつか深刻な問題が疑われます」
「決算ミスですか?」
「いえ、不正の恐れがあります」
ジェニーの説明を聞いて、岩見の顔が曇った。
不正や誤謬を発見し、これを是正するのが監査人の仕事ではあるが、実際に不正に遭遇するといろいろと余分な手間暇がかかり、騒ぎも大きくなる。できれば見つかってほしくないというのが、人間として正直な気持であった。
「不正というと、どのような?」
尋ね返す岩見の声が暗くなる。
「粉飾決算、並びに架空または水増し代金支払いの疑惑があります」
「……」
岩見は息を飲んだ。粉飾決算とは、随分強い言葉だ。
仕入れでの不正ということになると、ことはまた大掛かりになって来る。架空請求、水増し請求で会社の金を着服するためには取引業者と結託する必要があるからだ。
「調査には時間がかかりますね」
「そうですね。社内の人間が業者からリベートやキックバックをもらっていたとしても、
「どんな案件を疑っていますか?」
「まず無形固定資産の不適切な計上。これは決算の粉飾に当たります。次に、実態が伴わない委託業務に対する過大な支払。これには『技術顧問料』や『分析・検査サービス』が含まれています」
「顧問料か……。面倒だな」
岩見が苦い顔をした。
顧問料やアドバイザー・フィーという名目の費用は、何をもってサービスの内容とするかが極めて難しい。「名前を貸しているだけ」の顧問が世の中にはいくらでも存在する。
「提供サービスの実態については明日調達課長さんをインタビューする予定です。委託業務の成果物について検収責任は調達部門にありますので」
ジェニーは明日のインタビューのことを岩見に話した。
「私の方では、入出門記録、来客記録、会議開催記録などから顧問サービスの実態について検証するデータを集めています」
「なるほど。そういった間接的な情報と成果物との照合を行うわけですね」
清十郎はいわゆる「裏取り調査」の状況について説明した。
実体のないコンサル報告などはこの検証により弾けるはずであった。
「契約そのものの適切性については、管理部長の木下さんをインタビューさせてもらいます」
もう1人の聞き取り相手である木下のことを、ジェニーは報告した。
「木下さんは契約責任者なので、契約内容について確認させてもらいます」
「木下さんが不正に関与しているということですか?」
岩見は声を潜めた。
「いえ。そこまではまだ。ただ、十分なチェック機能を果たしていなかったのではないかと」
委託業務の具体的な内容、料金体系の正当性、成果物提供の具体性・客観性、そう言ったものの定義と管理に甘さがあったのではないか。ジェニーはそう指摘していた。
「そうですかあ。それにしても、もめごとは避けられないだろうなあ」
面倒を予想して岩見は頭を抱えそうな様子であった。
「物は考えようです」
清十郎が救い舟を出した。
「放っておいたら手遅れになるところを、手前で捕まえたわけですから」
「そうは割り切れませんよ」
岩見の声は泣きそうなものになった。