清十郎の依頼していた調査の結果が届けられた。内容を確認すると、処理が遅れているケースがあったものの、明確に不正と見られる事例は見つからなかった。
清十郎は自分の考えを松永に告げて意見交換する。
結局処理遅れを指摘した案件の内、1件は取引先の対応が遅かったために処理が間に合わなかったということが確認できた。
清十郎は当該案件を指摘項目から外した。
会計師の仕事はいやがらせでも揚げ足取りでもない。
彼らの仕事は、可能な範囲で正確な会計処理を維持するシステムが準備され、きちんと機能しているかどうかを検証することである。
清十郎の見るところ川村が率いる経理課は、人数が少ない割にはしっかり機能していた。手が足りなくて処理の滞る部分が散見されるが、致命的な遅れにはなっていなかった。
(「事務改善が求められる」という奴だな)
清十郎は監査報告書の締めくくり文が、頭に浮かんで来るのであった。
◆◆◆
佐野から現品実査の準備が整ったと言われ、清十郎は準備時間を10分取ってもらった。ジェニーを「ゾーン」から引き戻すためである。
「お嬢、トイレに行って歯磨きして、顔洗って来い。タオルと歯ブラシはこれを使いな」
清十郎は真っ白なタオルと使い捨ての歯ブラシをジェニーに渡した。
「わかった」
それだけ言って、ジェニーは化粧道具も持たずにトイレに向かう。
「ちゃんと、ここに帰って来いよ」
幸いトイレは廊下を挟んだ斜め向かいにあり、迷子になる恐れはない。
それでもジェニーが出た後、会議室のドアを開け放しにして廊下を通れば中が見えるようにしておいた。
「何だかぼーっとしているようですが、片桐さんは大丈夫ですか?」
さすがに様子がおかしいと気づいて岩見が気遣ってきた。
「調査に集中すると入り込んじまうんですよ。顔を洗えば普通に戻るんで、ご心配なく」
他人に説明するのも慣れっこになっている清十郎は、笑いながら手を振った。
5分して帰って来たジェニーはさっぱりとした顔をしていた。
「顔洗ったらすっきりしたわ。現品実査に行って来るね」
「おう。気をつけてな。やたらな物にさわるんじゃねぇぜ」
ここは研究所である。危険な機械が存在するし、素人が手を出すと研究者の迷惑になることもあるだろう。
「わかってる。手は出さないよ。私が動かすのは
大学卒業以来、ジェニーは実務経験を5年積んできた。それなりに企業経営に詳しくなってきたが、現場経験という意味ではまだまだ一人前とは言えない。
百戦錬磨の清十郎から見れば、「駆け出し」であった。
◆◆◆
「作業場では白線で仕切られた安全通路内を歩くようにお願いします」
佐野にそう注意されて、ジェニーは素直に返事をする。ここには働いている人たちがいる。
作業者に迷惑を掛けるなというのが、父と清十郎から教えられた心得であった。
ここは日本随一の製薬会社、その基礎研究所である。機密も多いが、安全、清潔、防疫上の理由で入場制限のある場所が多い。
佐野はそういうアクセスが難しい場所を後回しにする順番で、現場訪問のルートを組んでいた。
現場に着くと、まずはピックアップした設備がどれであるかを示される。ジェニーは銘板を確認し、資産リストの記号と現品の突き合わせを行った。
名称や機能の説明を聞いても、その機械がどんな機能を果たすものなのか、ジェニーにはちんぷんかんぷんなこともある。専門家以外なら誰でもそうだろう。
それは構わない。必要なのは帳簿が実態を正しく表しているかどうかの判断だ。
購入価格は妥当だったか? 資産計上は遅滞なく行われているか? 減価償却は適正か? 機能は保全されているか? 現在も問題なく使用に供されているか? 技術の著しい陳腐化はないか?
それらの課題について、ジェニーは佐野や設備の管理担当者に確認を取る。
「お嬢、隅っこに積まれていたり、埃を被っていたり、カバーを掛けられていたり、油を差した形跡がなかったり……。そういう邪魔にされている機械があったら、銘板を確認してメモるんだぜ。そいつァきっと遊休資産だ」
清十郎からはそう仕込まれた。遊休資産とは現に生産の用に供されていない資産のことを言う。
場合によっては売滅却すべき資産として、検討の対象となる。
「これは何ですか?」
「どうしてこうなっているんですか?」
この2つの質問を恐れてはならない。門外漢が何を聞くかと言われても、引き下がってはいけない。
「専門家だって言うならよ、こんな簡単な質問に答えられねェはずがねェ」
本物の専門家とはその分野の知識を深く理解し、自分の物にしている人のことを言う。彼らは深い理解を備えているがゆえに、専門知識を素人にもわかりやすく伝えることができる。
それができないとしたら、真の実力がないからである。
ジェニーはリストアップした研究設備を巡りながら、時に足を止めて佐野や現場の管理者に質問を飛ばした。納得できる回答が返って来るまで、ジェニーがその場を動くことはなかった。