受付で来意を告げると、会議室の1つに通された。
約束の13:45ピッタリにドアがノックされ、研究所の幹部が登場した。
所長の綾瀬、管理部長の木下、そして経理課長の川村であった。
「お世話になっております。所長の綾瀬貴子です」
タイトスカートの上に作業服の上着を羽織った綾瀬は50代の女性であった。化粧っ気は少なく、目に力がある。
「お世話になっております」
何度か挨拶をしたことのある岩見は、ジェニーと清十郎を研究所側に紹介した。
「今回同行した片桐ジェニーと、吉竹清十郎です」
「片桐です。よろしくお願いいたします」
「吉竹です。お世話になります」
「あら? ジェニーさんておっしゃるの? ご本名ですか?」
「はい。戸籍上の本名です」
「失礼ですけれど、外国の血がお入りになっていらっしゃる?」
よくあるやり取りだが、綾瀬がジェニーの名に興味を示した。
「いえ、100パーセント日本人です。父親が変わり者だったもので」
ジェニーは事情をはしょって説明する。「銭子」という旧名や改名手続きについて説明すると話が長くなる。
何度か生真面目に説明して苦労した経験から、こういう説明で押し通すことにしたのだ。
「そうですか。可愛いお名前ですね」
たいていこういう受け答えになる。父が変わり者だったと言えば、それ以上「どうしてそんな名前に?」と突っ込まれることはない。地雷を踏みに来るのは余程の変人だけであった。
木下真一という男性が管理部長として技術畑以外の管理機能を統括しているとのことであった。人事総務部門も経理部門も彼の責任下にある。経理の責任者は課長の川村隆であった。
ジェニーたちが直接相手にするのは川村とその部下ということになろう。
日程に余裕があるなら所内の見学時間を取るところだが、今回は1日半での監査ということで省略された。
プロジェクターで事業所概況を映し出し、所長自ら説明してくれたのは綾瀬の誠意であろう。
「お忙しいところありがとうございました。それでは30分ほど内部の打ち合わせをさせていただき、2時半から調査開始ということでよろしいですか?」
「結構です。それでは2時半に私川村と経理のメンバーでお伺いいたします」
監査は定時内で行うのがルールなので、この日も17:00までと決まっている。2時間半しか時間がないので、効率よく作業を進める必要があった。
素早く打ち合わせた結果、岩見が「流動資産と経費」、ジェニーが「固定資産と開発費」、清十郎が「負債の部」を担当することになった。
「研究所なんで売上計算や製造原価がない。棚卸資産も負債勘定も限られている。片桐さんの負担が大きいんじゃありませんか?」
岩見はジェニーを気遣った。
「ご心配ありがとうございます。オーバーフローしそうならヘルプをお願いしますので、明日の昼まではこの配分でやってみます」
ジェニーは礼を言いながら、岩見の懸念を受け流した。
岩見の見方はもっともなものである。研究所である以上、研究用設備、技術情報、研究開発費、試作品などが多数存在する。それらは「固定資産」ないしは「開発費」に分類されるのだ。
専門的な内容の資産について会計師が全貌を把握するには時間と労力を必要とする。
しかし、ジェニーは技術を理解しようとはしていない。「会計的な取引」として数字を理解するだけである。
そうであればどんなに難しい目的に使用された資金であろうと、単なる金額に過ぎなかった。
初日の残り時間は少なかったが、ジェニーは固定資産の現品確認をその日のうちに行うつもりだった。現品実査で問題が発見された場合、追加調査が必要になる。そのための時間を確保しておきたいのだ。
先方が用意してくれたホワイトボードに、清十郎が自分達3人の名前を書き出し、分担項目を列記した。資料や調査回答の提出先を間違えないためと、進捗や宿題事項を見やすくするためである。
「原則、明日の昼までには調査を完了しましょう。昼から3時まで纏め時間、3時から15分は内部打ち合わせ。3時15分から3時半までを講評会、3時半に東京への速報を入れ、4時には空港に向けて出発しましょう」
清十郎は、これもホワイトボードの片隅に書き込んだスケジュールについて、岩見に共有した。ジェニーとは昨日のうちにすり合わせてある。
「少し駆け足な気がしますが、時間切れを防ぐためですね。わかりました。今日の内に宿題を渡して、明日は朝から刈り取れるようにします」
「本当。忙しいですね」
「取りこぼしがないように、連絡はしっかり確認しながら進めましょう」
百戦錬磨の清十郎が最後に念押しをして、3人は経理課チームの到着を待った。
◆◆◆
「改めまして、課長の川村です。こちらが主任の松永、そして担当の佐野です。2日間よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします。大日本監査法人の岩見です。この2人は片桐と吉竹です」
代表して岩見が挨拶を受けた。
「今回は緊急の特別監査ということで日程的にご無理をお願いすることになります。恐縮ですがご協力ください。それでは分担とスケジュールについて吉竹からご説明いたします」
清十郎が立ち上がり、ホワイトボードの内容を説明した。
「実質1日程度しか調査時間がありません。大変申し訳ありませんが本日ピックアップした項目を夜の間に調査頂き、明朝までにご回答ください」
清十郎はメールアドレスを交換し、データをアップロードしてもらう共有ディレクトリのURLを送付した。
使用してもらうアクセスIDとパスワードは別メールで送信する。
「では、担当別に調査を開始させていただきます」